見出し画像

【建築家になんかなれるもんか】:ランボー 怒りのミートゥー

今またPCの画面の前で指が震えている。
noteでは何を書くか決めないで書き始めるというマイルールを持っているので、例えるならパラシュートダイブで不時着するのが習わしなのだが、今回の降下地点だけは下に見えている大地が完全に殺人的な形をしている。恐ろしい。こういうときこそ人々は「雄弁は銀、沈黙は金」などと言うのだ。とはいえ、ここでは人目を憚らず書くことを矜持としているわけで、自ら決めたルールをたった3回で終わらすのは癪だし、なにより自分可愛さに負けた感があって嫌なので、とりあえず片足だけ出してみる。

リドリー・スコットの監督作品『エイリアン』(1979)を御存知か。
そう、アレである。H.R.ギーガーのサイバーでゴスい装飾が立派に施されたポテンツ型宇宙人がネバネバの液体を撒き散らかしながら人間達を襲っていくアレ。
ストーリーはシンプルで、主人公のリプリー達は仕事の帰り道に宇宙空間で漂流するエイリアンの船に遭遇、自分達の船内に侵入され血みどろの逃走劇が繰り広げられるというお話。
この映画に関する面白い点を語るだけで尺がどんどん長引くため割愛するが、注目したい点はリプリー(女)、エイリアン(ポテンツ)、そして1979年という公開年の重要性である。というのも、これは明らかにプレフェミニズム時代の徴候をダークファンタジーとして浮き彫りにした作品だからである。リプリー(シガニー・ウィーバー)は坊主でめっちゃくちゃ強く、古典的な女性記号の烙印をすべて忌避する存在である。体育会系社会で働き、色気はなく(あるが)、現在の麗しいオフィスレディ達とは似ても似つかない振舞いをする(見た目の話ですよ。)しかし、映画の中で夥しい数の男性記号に襲われてしまう。周りの上司も言うに及ばず、あまつさえ母艦ノストロモ号でさえ男性的である。しかも、何度も襲ってくるエイリアン(ポテンツ)は、リプリーにある種の絆すら感じているように見え、その姿はストーカーか、あるいは母を探す息子のようである。
つまり、これらの闘争は、リプリー自らが課した女性性の否定と、しかし生物として否応無しに女性であるという突き付けられた事実の狭間で描かれている。何が凄いって、後の世で起こるフェミニズムの葛藤を見事なまでにプロアクティブに描写している点である。そして、さらに凄いのは、そのシリアスさも交えた上で極上のエンターテイメントにしているところだ。この事実に気づかなかった方は感度が悪いだけだが、今聞いて納得したならばよろしい。

そして、なんとなく言いたいことはもう言った。伝わった方は、ここらへんで踵を返されたら良い。ここからは、僕はシガニー・ウィーバーの気持ちで逃げ回る。

つまり、こうである。

人間は怒りに身を任せると愉楽を失うのか?と。(チラッ)

というのも、2018年はポスト・フェミニズムの年だった。
ミートゥー運動しかり、東医の入試選考問題しかり、女性に対する社会問題が多く表沙汰になった。色んな界隈で旋風を巻き起こして、建築界隈でも噂で聞くかぎり肝を冷やした(冷やすべき)人間もいたようだ。そのことは、とても良いことだと思う。権力をかさに着てハラスメントなんて、即刻やめたらば良い。
しかし、ケースによってはヒステリックな逆魔女狩りみたいなものもあったように見受けられる。ちょっとしたアクションに対して、公開謝罪、辞任。みたいな。場合によっては、当人達より外野の方がそのことに対して騒がしかったりもして、肝を冷やされざる人間にまで話が及んでしまったり。それで逆魔女狩り裁判の判決が、法化しちゃったりして。どっかで聞いた話だが、教員の指導要領に「学生と話すときは、顔や体を見ないようにしましょう(首・肩・腰・…,etc.)」なんてことを書いている大学もあるらしく、サロンパスじゃんと笑ってしまった。アンメルツヨコヨコでも良いが。

それで、そういう話を聞いていて思うのだが、当たり前のこととして、多くのことはコミュニケーション上の相対的な尺度で決まってくる。もちろん、一方的ないじめとかあからさまなセクハラみたいなものは除外するとして、普段のやり取りの中では、単なるいじりか、ハラスメントかの線引きは難しいにせよ確実にあるわけで。そのことに互いがどれくらい感度を高くしていられるかってのが、本当は望ましい話ではないのか。それをコントロールするのが機微というやつじゃないですか。そりゃ失敗はあるさ。けど、なんせ初期ミートゥーの良かった点は、マニュアル作りではなく個人に責任を訴求した点にあるのであって(そいつらはよっぽど酷かったに違いない)、それが拡散すると共に内容がてんこもりになり、一切の活動を禁ずるみたいな、おかしな話にならぬよう重々気をつけされたし。というか、これはミートゥーに限らず一般性のある話だと思う。

そして、もう一つ。
ユーモアは大事だ。何かを伝えたいのであれば、とくに。

僕はベルリンの壁崩壊の一週間前に生まれた人間なので、無条件にベルリンの壁の話が好きである。どれくらい好きかっていうと、ベルリンに訪れて崩落した壁の残骸を見たとき、一目も憚らず一人でおいおいと泣いたほど好きである。
いくつか理由はあるが、その一つは、そこに描かれていた落書きである。一人や二人じゃない何百もの落書きである。何が描かれているのかは正直わかってない。が、それはとても美しい光景だった。そこには、なにか、人々が負の遺産をたくましく使いこなしてやろうという、生命のエネルギーのようなものを強く感じたのである。

ユーモアは茶化すこととは全然違う。英語でHumour、独語でHumor、原義はラテン語で「血液」とか「体液」とかそういう意味である。もともと医学用語だが、それは人間の気質の基本構成を意味している。つまり、ユーモアを行使することは、対象に血肉が満ちるということであり、人間性(ヒューマニティ)の獲得である。また、ユーモアは内側からいずることに、より強い価値がある。つまり、当事者たちが逆境を乗り越えていく過程にこそ、その尊厳が宿るのだ。
このユーモアを駆使すると何が良いかって、政治の権力機構に回収されない点だ。権力は全体に及ぶが、ユーモアは個人の心に訴求する。おかしな方向に晒されるリスクは各段に違う。是非このことは勘案されたし。

ところで、建築家はユーモアとは基本的に無縁である。職業上、事件の解決が最優先であるから仕方がない。
しかし、どうしようもならない苦しい社会問題のようなものに直面したときには、ユーモラスな方法を用いることにも可能性がある。政治的・経済的・法的・倫理的な問題に振り回されやすい分野だから閉口しがちにもなるのだろうが、そろそろ丹下の反省によるドライなスタンスから脱却して、権力相手にも少しずつ口を開けばよろしいのではないか。そんな勇気を持てないのであれば、建築家になんかなれるもんか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?