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それは清々しい朝だった

働く理由は人ぞれぞれである。趣味を満喫するために働いてもいいし。誰かを守るために働いてもいい。そんな私は地元の大阪ではなく、東京で就職した。東京に行くんだねと周りの友人からは羨ましがられたんだけれど、それなら代わってくれと私は言いかけて、喉の奥に言葉を飲み込んでいた。

大阪に配属希望だったのに、東京に回された社会人1年目。最初は実家暮らしでお金を貯めてから一人暮らしをしようと考えていたはずが、いきなりの一人暮らしである。しかも希望だった営業職ではなく、事務職に配属された。もう何もかもが予想外だった。

夜の公園のベンチに腰掛けて、のんびりと考える。なんでこんな仕事をしてるんだろうかと、ため息まじりにつぶやく。

毎日のように書類チェック。本当なら営業でいろんな会社に回っているはずなのに、私はずっとオフィスの中にいる。今日は書類のチェックミスをしてしまったし、昨日はプレゼンで使うからと依頼された書類を印刷し忘れた。すぐに覚えられるからと言われた簡単な作業すらもままならない。もう散々だ。こんな生活やってられない。こんな代替可能な仕事は、わざわざ東京に来てまでやる仕事か。今すぐにでも大阪に帰りたい。

夜の公園は静かだから好きだ。昼間は子どもが独占しているが、夜はブランコや象の乗り物も独占できる。妄想に浸っても誰にもバレないし、自由を掴んだ気になれるから最高だ。仕事でミスをした日は必ずすべりだいの下に座って、缶チューハイを開ける。自分に酔いさえすれば、悲しみを遠ざけることができはずだ。それがたとえかりそめのものだったとしてもである。

「山田さんまた書類ミスしてるよ。もう何回言ったらわかるの」

ほら、また怒られた。私は東京に怒られに来たのか。上司の高橋さんはいつも怒っている。怒るのにも体力を使うのに、疲れないのだろうか。そういえば怒りが込み上げた時は6秒間我慢すればいいと。アンガーマネジメントの本に書いてあった気がする。本のタイトルは忘れてしまったけれど、今高橋さんに読んでほしい本ランキング堂々の1位であることはまちがいない。

仕事なんだからしっかりしてと言われても、私は元からしっかり者ではないのだ。そもそもしっかりとは何を指すのだろうか。毎日会社に行っているだけで私は十分しっかりしていると思うんだけれど、高橋さんとのしっかりの定義が確実に違うのだろう。仕事だって大学を卒業したからしているだけで、お金を稼がなくてもいいのなら働かずに。海の見える家でのんびり暮らす。働きたいときだけ働いて、そのほかの生活はやりたいことをやって暮らしたい。

私は小さい頃からずっと怒られてばかりだ。門限を破ったからと親に怒られ、高校受験に失敗したから怒られた。大学生のときも彼氏を勝手に家に入れて父にこっぴどく怒られた。この人生は怒られるためにあるのかと言わんばかりにだ。どうやったら怒られないかを考えると、相手の顔色を伺って生活するようになった。機嫌を損ねないように振る舞って、なるべく怒られないようにしているつもりなのだが、うまくいかないことばかりだった。

***

はじめて住む東京はちょっぴり怖かった。深夜になっても、街は眠りにつかず、ずっと明かりがついている。どんな生活があるのだろうかと明かりのついた部屋の暮らしを勝手に妄想するのは楽しいけれど、きっと楽しいばかりではないのだろう。それぞれがそれぞれの地獄を抱えているとは上手く言ったもので、笑顔が多い人ほどたくさんの悲しみを乗り越えてきた過去を持っている。

大阪に少し前まで住んでいたとはいえ、家の周りには田んぼが広がっていたり、電車は1時間に数本しかなかったりする程度の田舎町だ。もうそろそろ地元では夜に外でコオロギが鳴き出す頃だろう。でも、東京は虫の鳴き声ではなく、季節に関係なく、車のエンジン音がずっと街中に流れている。

田舎で育った私には、都会の耐性がまったくないと言っても過言ではない。東京の深夜になっても、街灯や窓の明かりが街を照らす光景はまさに異様だった。なんて言っていても人は次第に環境に適応していくもので、いまはなんとも思わない。不思議だと思うけれど、そんなもんだよなと勝手に納得している自分もいる。

仕事で大きなミスをしたときに「もう、大阪に帰りたいよ」と、大阪に住む親友の紀子に泣きついたことがある。紀子は本当にいいやつだ。いつも私の味方でいてくれる。ポンコツな私を怒る真似はしない。私が何かやらかしたときは、いつだって紀子が「ああ、またやらかしたね」と笑顔で対応してくれる。私が学生時代に彼氏に振られたときは深夜にもかかわらず家に来てくれたし、家の鍵を無くしたと慌てていたときも、見つかるまで一緒に探してくれた。

私は大型連休に大阪に帰省して、紀子に会うために仕事をしていると言っても過言ではない。そんな紀子がある日の深夜に、突然電話を掛けて来た。普段は明るい紀子の様子がなんだかおかしい。どうしたのと尋ねると彼氏に振られちゃったと返ってきた。紀子みたいないい子を振るやつは大バカだ。私が男なら紀子を絶対に泣かせないのに。彼女はひとしきり話し終えたあとに疲れたのか、電話口の向こうですやすやと寝てしまった。

翌日の朝、紀子からの着信で目が覚めた。昨日は深夜まで電話を付き合ってもらったから申し訳なくてと話す。そんなこと気にしなくていいと返すと、花ちゃんは1人で東京に行って、仕事をしているから本当にすごいよと返ってきた。失敗だらけなんだけどねと言い掛けたときに、部屋の奥から黒い煙が出ていることに気がついた。

オーブントースターを開けると、食パンが黒焦げになっている。私は食パンすらも上手に焼けないほどダメなやつなのかと肩を落とした。紀子は完全に私を買い被っている。今日だって高橋さんに怒られるにちがいない。でも、たとえ怒られる毎日だったとしても、私には親友がいる。その事実が今日もたった1人で上京した私を支え続けているのだ。

次の大阪帰省はシルバーウィークにすると紀子にLINEを送ると、じゃあ久しぶりに海を見に行きませんか?と返ってきた。思わずうふふとiPhoneの画面に向かって微笑んでしまった。行くに決まってるじゃん。ちょっと花ちゃん標準語になってるよ。あれ?もしかして私東京に染まったのかもしれない。東京に染まっても花ちゃんはずっと友達だよ。なんてやりとりをしていると、家を出る時間まであと3分しかないではないか。急いで仕事の支度をする。黒焦げになった食パンは家に帰ってから処理しよう。

やばい、ちょっと間に合わないかも。

大慌てで家を出た瞬間に、ビュンッと大きな風が吹く。

それは清々しい朝だった。

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