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真夜中河川敷戦争

たくさんの人で賑わう居酒屋で、人間はお金がないときに非行に走りやすいという話を聞いた。学生時代に通帳の残高が0になったとき、近所のパン屋さんに食パンの耳を恵んでもらっていた。そのほかにも知り合いの家でご飯をご馳走になった機会もある。家にお風呂がなかったため、知り合いの家で何度もお風呂を何度も借りた。

なんで自分ばかりがという思考に陥ると、自分だけの世界が完成する。世界は広いはずなのに、自分の殻に閉じこもる卑屈な目をした人間になった。誰も信じられない世界は脆くて切ない。周りを敵だと認識した瞬間に、生きている意味を見失った。何のために生きているのか。その問いに答えを求めるために、真夜中の河川敷を何度も彷徨った。

どこかから野犬の遠吠えが聞こえる、彼らは飢えを凌ぐために人を襲う。食い物はないか。たとえなかったとしても、己の尊厳を守るために、彼らは戦いをやめない。一頭の遠吠えが河川敷中に響き渡った瞬間に、一緒にいた野犬たちの遠吠えが僕の耳に襲い掛かる。もしかすると、生きたいという雄叫びだったのかもしれない。

一度、真夜中の河川敷で野犬の群れに襲われた経験がある。いっそこのまま野犬の餌になってもいいのでは?という考えが脳内に駆け巡ったが、あまりの恐怖に自転車のペダルをこれまでにない勢いで踏みつけた。息を乱しながら1人に人間に追いつこうと必死の河川敷を駆け巡る姿は、まさに狩る者だ。

寸前のところで逃げることに成功した途端に、野犬たちの遠吠えがどこかから聞こえた。額についた大量の飛沫を拭った瞬間に、生を実感する。まだ死にたくないと思っている1人の人間がそこにいた。お金もなければ、明日を生き延びるための食糧もない。一方で温かい家庭に包まれながら、ご飯を楽しむ遊人たち。神は不平等を平等に与える。それでもこの試練を乗り越えれば、そこに一縷の光があると信じ続けた。生きる希望はないけれど、とにかく生きるしかない。それは死ぬことへの恐怖からやってくる羨望だった。

過去に一度だけお金欲しさで非行に走ろうとしたことがある。その思いを踏み止まらせたのは、ある日スーパーで万引きをした人が捕まったとテレビのニュースでやっていたことだった。自分の名を歴史に名を残す行為が犯罪であってはならない。世のため、人のために生きる。たとえどれだけの困難が待ち受けていようとも、飯が食えない日々はいつか美談になる。そう思えたのは、インターネットや書籍で出会った数々の言葉のおかげだ。

お金がないはまさに負の根源である。非行を肯定するつもりはないけれど、河川敷で人を襲う野犬たちのように、それが明日を生きるための手段だったのかもしれない。

もしも裕福な家庭に生まれていたら、そもそも非行に走るという発想自体がなかったのかもしれない。結局非行に走る勇気はなかったのだけれど、お金がないときに非行に走りやすいという話を聞いたときに、ドキッとしたことを今でも鮮明に覚えている。

まだ希望はあるか、と自分の心の中に問いかけた。生きていたいという渇望がまだ心の中にどよめいている。もしかすると、ここで背負った傷跡は一生消えないのかもしれない。それでもいい。その覚悟で生きる。たとえ希望がなくとも生きたいと思える風景が河川敷一面に広がっていた。

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