見出し画像

春のさよならを脱ぎ捨てて

世間はすっかり春だ。街中に分厚いアウターを見かけなくなった。少し気分が滅入るのは春のせいだろうか。春には別れがつきものなはずなのに、僕の別れは冬真っ最中にやってきた。

30年住んだ大阪を離れて東京に移住。それまで共に過ごしてきた友人や家族とも随分と距離ができた。以前までなら連絡をすればすぐに会えたのに、今では会うことさえも大きな手間がかかる。

東京、新しいものとの出会いに忙殺される日々。手に入れたものはあるのだろうか。失ったものはあるのだろうか。ほんの少しでも気を抜いてしまえば、すぐに目の前にある大切なものを見失いそうになる。

僕はとにかくさよならが下手だ。東京に移住する前に、会いたい人にちゃんと会えなかった。引越し業務が忙しいと言い訳をして、ずっと部屋に篭りっぱなしの日々を過ごし、あの人にもちゃんと挨拶したかったと今になって後悔している。もちろん今生の別れではない。ご縁が巡って来ればまた会えるはずと信じている。いや、これは自身を肯定するために、信じたいだけなのかもしれない。

出会いは嬉しい気持ちになれるのだけれど、別れの際のしんみりとしたあの空気が苦手だ。何度経験しても慣れないし、そこに慣れるのは少々無理がある気がする。誰かとの別れのたびに涙が溢れそうになるし、もう会えないかもしれないと悲しくなる。出会いとさよならはセットと理解しているはずなのに、心がそれを受け入れられない。

1月の後半にさよならはもう済んでいるはずなのに、虚しさが胸を襲うのはどうしてだろうか。もっと東京で仕事を頑張りたい気持ちばかりが沸々と湧いてくるし、大阪に帰りたいという気持ちはない。それに東京でも新たな出会いはあるし、これからもたくさんの人との出会いが待ち受けているはずだ。やはり30年という時間が、あまりにも長すぎたのだろうか。きっとさよならの瞬間に、相手にピッタリな言葉が見つからなかったからだろう。

物書きのくせに言葉下手で、本人を目の前にすると考えていた言葉が全て吹き飛ぶ。文章ならきちんと伝えられるのにと思いはするものの、それを相手に伝える勇気がない。さよならのときは何事もなかったかのように寂しくないふりをする。精いっぱい取り繕っている様すらも相手に伝わっているのかもしれない。

桜は相手に飽きられる前に散ってしまうから潔くて好きだ。綺麗な様子だけを相手に見せる。僕も桜のような人間になりたいのだけれど、今世はやっぱり無理そうだ。諦めるしかない。さよならを乗り越えて、また新しいさよならがやってくる。その度に虚しさと出会って、ああでもない、こうでもないと潔さのカケラすらない無様な表情が顔を出す。

分厚いアウターをクローゼットにしまうように、出会った事実を胸の奥にいつまでもしまい込んでいたい。

この記事が参加している募集

眠れない夜に

ありがとうございます٩( 'ω' )و活動資金に充てさせて頂きます!あなたに良いことがありますように!