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虚しさの正体

何かに夢中になっている人を、たまに羨ましく思うときがある。自分に熱中できるものが何もないからかもしれない。

取材で何かに熱中している人の話に触れるたびに、新しい発見があると同時に、自分には何もないと劣等感を感じている。もしかしすると、熱中しているものが何もないからこそ、ライターや編集者という仕事をしているのかもしれない。他人に感化されること、他人の熱量を引き出すことで、自身の尊厳を保っている節がある。他人の良さを世間に知ってもらうきっかけを作る行為に目立った功績はなくとも、自身の生きる糧になっていることは事実だ。

生きることに対して、ずっと虚しさを感じている。原因は不明。先天的に生まれ持ったものなのか、後天的に身についたものなのかどうかもわからない。過去に自分がひどい仕打ちを受けたときに、悲しい気持ちにならないように、魂を自分のみから引き剥がしてきた。うれしいときもうれしさはいつか終わると、最初からうれしい気持ちを芽生えさせないように、体から魂を引き剥がしてきた。

誰かの嬉しいニュースを聞いたときも、嬉しい気持ちはあれど、どこか他人行儀になってしまう。そこに羨ましいといった気持ちは微塵もないし、相手に対する気持ちは本物なのだが、自身に芽生えた感情が嘘なんじゃないかと思って、胸の中がぎゅっと締め付けられた感覚に陥る。

虚しさの正体は一体なんだ?埋め方は?そもそも埋めなけれないけないのか?それすらもわからず、30年間生きてきた。何かに夢中になっているときは、何も考えなくてもいいため、一時的に虚しさは埋まるが、何もしない状態になった瞬間に虚無感がやってくる。

本当の意味での虚しさが埋まらないかつ自身が何を求めているのかもわからない。虚しさを埋めなければならないという強迫観念が、逆に自身を追い込んでいるような気もする。

虚しい気持ちは、生きる意味を見出していないから生まれるのだろうか。虚しさと生きる意味が直結するのかどうかはわからないが、それらを探す旅が苦しいものならば、そこから逃げたい気持ちもある。

生きる意味を探すのが人生とよく耳にするが、生きる意味がなくとも生きることはできているのが現状だ。無理に虚しさを埋める必要はないし、生きる意味を探さなくてもいいのかもしれない。きっとこの虚しいという気持ちは誰もが持っている感情だ。何かで埋めて安堵したり、埋められなくて絶望感に打ちひしがれたりしているのだ。

虚しさは埋まらないと諦めている一方で、性懲りもなく虚しさの正体を知るための旅をずっと続けたいと思っている自分がいる。

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