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ぜんぶ、きみのせいにすればいい

人間は1番最後に香りを忘れるらしい。1番最初に声を忘れ、その次に顔を忘れる。きみに触れていた感覚を忘れ、そして、1番最後にきみのにおいを忘れる。

「ねえ、かおり、知ってた?アメスピは燃焼剤が入っていないから普通のたばこよりも長持ちするんだぜ」

「うわぁ、全然興味ない。むしろ普通のたばこよりも長持ちしないでいてくれればいいのに。いや、ひろしくんがたばこをやめればいいのよ」

好きな人がいつも吸っていたたばこは、わたしがこの世で1番嫌いだったにおいだった。健康的にも金銭的にもダメージがあるたばこを人はなぜ好むのだろうか。じぶんからダメージを、受けに行くなんてバカか。わたしはそんなバカには絶対にならない。

たばこを好きになる理由なんて興味もなければ、知りたくもない。でも、たばこをはじめた理由と、やめた理由を他人に聞くのは好きだった。ひろしがたばこをはじめた理由は、仕事の付き合いからのようだ。先輩が喫煙所で話をしていて、先輩と話をするために、たばこを吸いはじめた。どうやら喫煙者と仲良くなるには、喫煙者になるのが手っ取り早いらしい。

たばこのにおいが嫌いだった私を気にして、いつも家の前にある公園かベンチでたばこを吸っていたきみ。部屋の中に、たばこのにおいが染み付くなんて考えられない。ことあるごとにたばこを吸うひろし。きみがたばこを吸うときは、考えごとをするか、息抜きをするかのどちらか。たばこを吸ったあとのきみの左手が嫌いだった。たばこのにおいがこびりついた左手は不快そのもの。すぐに手を洗ってほしいのに、めんどくさいの一点張りのひろしは、いつもわたしの思い通りにならなかった。

残業が徐々に増えたひろしが、帰ってくるのはいつも終電だった。少しずつ生活にすれ違いを感じ、些細なことでの喧嘩が増えた。楽しい時間を過ごしたいのに、不必要な言葉でひろしを傷つける。いつしかひろしが、外でたばこを吸う回数が増えた。左手にこびつりついたたばこのにおいが、いつもわたしを不快にさせる。

仕事終わりに、突然iPhoneが光った。LINEの差出人はひろし。

「今日、大事な話があるから寝ずに待ってて」

iPhoneで「ひ」と打てば、1番最初に予測変換で「ひろし」と出てくる。現実世界だけでなく、仮想世界までもが、ひろしで埋めつくされているのだ。大事な話は、いつもいい予感と悪い予感の両方を連れてくる。そして、今回の予感は、きっと悪い方に的中にするはずだ。家に帰宅して、いつものように晩御飯の支度をする。大事な話が脳裏にちらついて離れない。

平常心を保とうと必死になっても、乱れを止めない心と体。晩御飯の支度どころじゃない。今日わたしは、ひろしから別れを告げられる。いつもわたしの思い通りにならないから、今回もうまくいかないのがオチだ。

「俺たち別れよっか」

予想通りの展開に、涙が溢れ出す。別れを告げられる覚悟は、ちゃんとしていた。でも、その言葉を耳にした途端、今まで溜めていたものが溢れ出した。1度言い出すと、ひろしは止まらない。「たばこをやめて」と言っても、いつまでたっても願いを聞き入れないひろし。今回も、わたしの願いは叶わない。

わたしがなにを言っても無駄だ。変わりっこない。結末はいつもひろしの思い通りになる。わたしは黙って身を引く。そのほうがお互いのためになる。そう言い聞かせて、わたしは「わかった」とだけひろしに告げた。

彼の荷物をまとめる。記念日にくれたお揃いの指輪。お揃いの歯ブラシ。ぶかぶかのスエットを勝手に着て怒られるあの瞬間が大好きだった。2人が並んだ写真は、もう必要ない。ひろしとの思い出は、ぜんぶ紛い物になる。

今日、ひろしは2人の家を出ていく。わたしたちは、2人から1人に戻るだけ。出会う前となんら変わりない。iPhoneが光る。ひろしではなく、友人からの心配のLINEだ。「ひ」と打つと、予測変換にいちいち君の名前が出てくるから、iPhoneまでもがいちいち思い出を蘇らせてくる。

ひろしとお別れして、1ヶ月がたった。空っぽになった部屋に、置かれたアメスピ。彼の好きなたばこをわたしはまだ捨てられていない。たばこを意図的に置いていったのであれば、彼はとても悪い男だ。アメスピを口実に、ひろしに電話してしまおうか。でも、そんな勇気はわたしにはない。

1番嫌いだった、たばこのにおい。人は1番最後に、においを忘れるらしい。彼の顔、声、ぬくもり、においをわたしははまだ覚えている。なぜか彼の吸っていたたばこを吸いたくなった。彼のにおいを思い出すために、コンビニでライターを買う。そして、わたしはたばこにそっと火をつける。最近のライターは昔のライターよりも火をつけやすい。初心者のわたしでも簡単に火をつけられる。

ひろしが置いていったたばこを吸う。予想通り咳き込んだわたし。たばこのにおいが、部屋に充満している。アメスピを吸うたびに、彼のことを思い出せる。

たばこが嫌いなわたしがたばこを吸いはじめた理由は、きみのにおいを思い出すためだった。彼はまだ大好きなアメスピを吸い続けているのだろうか。そして、アメスピのうんちくを好きな人に語りかけているのだろうか。

わたしはまだ彼のにおいを忘れられずにいる。でも、いつかきっと彼のにおいを忘れてしまう。彼のにおいはいつか突然吹いた風が、どこか遠くの国へと連れて行ってくれる。そのときがくるまで、わたしはきみとの思い出を忘れないでいよう。そして、次の恋人ができたときに、たばこもやめてしまおう。

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