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「一口ちょうだい」と言える関係性

先日、地元の大阪で中学からの友達2人と飲んだ。天満駅に集合して、一軒目は焼肉屋さんに足を運んだ。いつからかは覚えていないけれど、いつの間にか1人がお肉を焼く担当になっていた。嫌な素振りを見せるわけもなく、むしろ進んでお肉を焼いてくれている。非常にありがたいお話だ。

その友人は食べるのが大好きな人間で、Instagramのストーリーでよく美味しい料理をアップしている。大阪に住んでいるのに、東京で気になるお店を見つけたときに、いつも僕に教えてくれる優しい人間だ。焼肉屋さんでお肉がテーブルに運ばれてきたときに、自然とその友人が自分の近くにお肉を置く。彼が焼いたお肉を食べながら僕たちは談笑していた。

昔話に花が咲く。学生時代の話をするときは、当時に戻ったような感覚がある。なぜそうなるのかはわからないけれど、あの頃の情景が目の前に思い浮かぶのは紛れもなく事実だ。だが、1人の記憶が絶対に正しいとも限らない。思い出はいつだって美化されるものだ。綺麗な思い出もあれば、思い出したくない思い出もあって、それらが全て自分の都合のいい解釈へと記憶が変貌を遂げる。記憶の改変が起きたときに、「それは違うよ」と笑いながら正しい記憶へと戻す時間が楽しくてたまらない。

たとえばこれが初対面の人の場合は、笑いながら指摘することもなければ、そもそも記憶を元に戻す労力すらもったいないと感じてしまうだろう。友人の記憶が間違っているのに、むしろそれが面白い。そこから正しい記憶へと修正する時間が楽しいと思えるのは、、数十年積み上げてきた時間があるからこそだ。

美味しいお肉をたくさん食べて満足していたが、友人たちが「せっかくやし寿司を食べに行こう」と提案してきた。この時点で腹八分目ほどだったが、帰省のタイミングでしか会えないこともあり、僕は彼らの提案を受け入れた。大阪の帰省の際は、つい財布のひもが緩む。彼らだからいつもとは違う非日常を味わたいと思えるのかもしれない。

お店に着いて、僕はハイボールを頼んだ。友人が別のお酒を頼んだ。お酒に酔っていたせいもあり、名前を覚えていないのだけれど、そのお酒はレモンを入れるとより美味が増すらしい。そして、当たり前のように一口飲んでみという声が飛んできた。断る理由もなかったため、それを当たり前のように受け入れた。

一通り寿司を食べ終えたタイミングで、友人が赤だしを注文した。僕も頼むかどうか悩んだが、満腹のため1杯は飲めないと思っていた。そして、友人の頼んだ赤だしを一口もらおうと考えていた。そして、赤だしが席に運ばれる。友人が美味いと満面の笑みで言った。いつも通り「一口ちょうだい」と友人に伝えると、別の友人が「一口ちょうだいって気軽に言える関係はそんなに多くないよな」と言った。

確かにその通りだ。僕が「一口ちょうだい」と言えるのは家族か彼らぐらいしかいない。会社の同僚や社会人になってから出会った友人の場合は、同じ料理を注文している。友人が続けて「でも、一口だけ欲しいときってあるやん?それでも同じ料理を注文するってことはどこかで我慢が生じていると思うんよ」と言った。すかさず別の友人が「まあ俺らの関係やからできることではあるな」と照れくさそうに言う。その顔があまりにも面白く。僕らの間で笑いが渦巻いた。直接は言えなかったけれど、僕も友人と同じ気持ちだ。「一口ちょうだい」と言える友人がいる事実を心から嬉しく思う。

信頼関係を図る上で「一口ちょうだい」と言えるかどうかは大きな判断材料になると思った。友達は数が多ければいいと思っていたのは。学生時代まででだ。大人になってからは、友情の深さを重視するようになった。ただこれがギャンブル要素もある。もし一緒にいる人に「一口ちょうだい」と伝えたときに、嫌な顔をされたり、同じものを頼むよう言われたりすればへこんでしまうためだ。友情は時間をかけてより強固なものとなる。別れ際に友人が、「次いつ帰省するん?」と聞いてきた。次に会うのを楽しみにしてくれている友人がいる。その事実が何よりも嬉しい。天満駅で「また会おう」と嬉しそうに去って行った友人の笑顔を僕は決して忘れないだろう。

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