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「なぜ毎日書くのか」について考えてみた

毎日、noteを書くのが日課になっている。文章を書くのが楽しいし、今日はどんな文章を書こうかと毎日ワクワクしている。もはや完全に「書く」が生活の一部となってしまった。

noteではエッセイを書くときもあれば、心の内側について書く場合もある。毎日更新をはじめた当初から書く内容はその日の気分によって変えていて、たくさんの種類の文章を書きたいと思っている。

でも、今日はエッセイを書いていたかと思えば、突然方向転換をして、心の内側を書く場合もあるから思いつきで行動するってのは少し厄介かもしれない。

文章をたくさん書いている間に、noteのおすすめ記事にも数回選んでもらった。はじめて選んでもらえたときは、思わずガッツポーズをしてしまったし、あの喜びをまた味わいたいと思って、いまもこうして文章を書いている。

noteを毎日書くようになって、友人が増えたり、読んでくださる方も増えた。いろんな文章を書く人がいて、読ませてもらうのが楽しいし、「こんな文章を書きたい!」と嫉妬してしまうときもある。でも、たくさんの人に出会えたことがなによりも嬉しいし、毎日更新をはじめた最大の恩恵だ。

最近「なぜ毎日書くのか」について考えたんだけれど、その答えはもはやわからなくなって斎ことニ気づいた。心情の変化があったのだ。

最初は毎日更新している人というブランディングがしたかった。でも、いまはその気持ちは一切ない。その理由は毎日更新しているからといって、それ自体が自信につながるわけではないと知ってしまったからだ。

毎日文章を書くぐらいなら誰でもできる。その程度のハードルになってしまった。もちろん毎日継続する行為が、難しい行為なのは十分に理解している。

僕にも続くものがあれば、続かないものもあって、筋トレはかろうじて続いているけれど、ランニングはすぐにやめてしまった。人によって向き不向きがあって、単に毎日文章を書く行為が、ピタッとはまっただけだ。

いまはもう文章を書かないとムズムズする。歯磨きをするぐらいの感覚で毎日文章を書いている。もちろん書きたくないと思う日はあるけれど、PCさえ開いてしまえばこっちのものだ。

そして、毎日更新をしていると、「いつまで続けるの?」とよく聞かれるのだけれど、その答えもじぶんにもわからない。1ヶ月後に突然やめちゃう可能性だってあるし、死ぬまでこうやって書いているかもしれない。

結末は神のみぞ知るのだろう。

いつかやめてしまう日が来たとしても、その日までは全力で文章と向き合っていたい。そして、このnoteで積み重ねてきたものは、じぶんの残してきた足跡になる。

この旅路の行く末はまだわからない。だから、ゆらりゆらりと流れに身を任せるとしようか。


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