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『どろろ』正義と正義のぶつかり合いの成れの果てにある世界は果たして美しいのだろうか

それぞれの正義に正しさなどあるのだろうか。正義は別視点から見ると悪に成り下がり、他者を傷つける要因となる。自身も正義を振り翳した結果、たくさんの人を傷つけてきた。後悔の念は消えることなく己の体に深く刻み込まれ、この取り返しのつかない現状がただただもどかしい。

週末を使って、Netflixで配信されている『どろろ』を一気観した。手塚治虫作品は人間の浅ましさが見事に描かれていて、観るたびに心の奥が締め付けられる。名作と呼ばれているのは知っていたが、あの苦しい体験から逃れるために、ずっとこの作品を避けてきた。

醍醐景光は天下統一の野望を達成するために、我が子の百鬼丸を鬼神に食わせた。ところがその子は生きており、自分の体を取り戻す旅に出ていた。失ったものには2種類の人間がいる。取り返すために行動を起こす者と絶望に打ちひしがれる者だ。百鬼丸は前者の人間で、自分の体を取り返すために手段を選ばない。鬼だけでなく、人間を殺め、その姿はまさに鬼神だった。

そんな百鬼丸に救いの手が差し伸べられる。それは旅先で出会ったどろろとの出会いだ。どろろが百鬼丸を人間にしたと言っても過言ではない。どろろと共に生きるために、百鬼丸は人間になった。堕ちた人間は、誰かとの出会いによって生まれ変わる。そう教えてくれたのが『とろろ』という作品からマンダことだ。

醍醐景光は死んだはずの我が子を消すために兵を仕向ける。結局、醍醐景光の野望は失敗に終わり、百鬼丸は体を取り戻すのだが、正義と正義のぶつかり合いはなんとも醜いものだった。たった一つの過ちが取り返しのつかない事態へと発展する。そもそも醍醐景光が百鬼丸を鬼神に食わせなければ、傷つくものは出なかった。そう考えると、正義とは恐ろしいものだと思った。

歴史において自分達の正義が正しいと証明するため人々は争い続けてきた。醜い野望を達成するために、守りたい人を守るために。争いは未だに止む気配はない。そして、いつだって勝者の正義が正しいとされてきた。

「ボクのおとうさんは、桃太郎というやつに殺されました。」というキャッチコピーがある。これは鬼側の視点に立った際に、悪は桃太郎だったというものだ。誰もが生活を持っていて、それを守るために生きている。鬼にも生活があり、自分達の生を脅かす人間をただ排除していただけなのだろう。だが、人間からすると鬼は自分達の平和を脅かす存在である。共存はできなかったのだろうかと考える余地もなく、人間の手によって鬼は殺された。その結果、途方に暮れる鬼が続出する。弱肉強食の世界とは、実に恐ろしいものだ。

己の正義を他者が邪魔をしたときに争いは繰り広げられ、その勝者が正しいとされるが、それは果たして正しいのだろうか。正義を振りかざすことはもはや暴力に等しい。誰かを守るために、誰かを傷つける行為には笑うものと泣くものが存在する。己の正義という刃を鞘に収めるだけで争いは回避できるのだが、人間の醜さは厄介なもので、一度振り翳した刃は簡単には降ろせない。これは鬼も例外ではない。だからこそ、己の正義が本当に正しいのか。今一度僕らは考える必要がある。

願わくば、困ったときはお互い様のやさしい世界が実現してほしい。そのために僕は文章を書き続ける。それしかできない己の無力さがなんとも歯痒い。

©手塚プロダクション/ツインエンジン

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