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美しい所作

高円寺の1DKの安アパートにはかつて2つの生活があった。そこにいた2人は恋人という呼称で呼ばれていて、いまではもうただの2人になってしまった。写真に残る彼女の姿がずっと色褪せない、写真の中に映る2人は、いつまでもきれいなままである。

出会いは行きつけの喫茶店だった。彼女もここの喫茶店の常連で、アールグレイがお気に入りなんだとか。僕はきまってアイスコーヒーを頼み、お店の端っこの2人席で、読書を嗜んでいる。

天井が低い店では僕の身長が高すぎてよく頭がぶつかることがある。だから、頭をひょいと下げながら店内をぐるりと回る。顔見知りのマスターが「ここの天井低いでしょう。いつも窮屈でごめんなさいね」と僕に告げた。ここで頭を下げる行為を僕は気に入ってしまっている。だから、そんなことは気にならないといつもマスターに告げているのだが、接客の丁寧さが抜けないのか何度も同じやりとりをしている。そんなマスターに対していつもなら気を使えるのに、今日は疲労の蓄積のせいで、マスターの忠告が耳に入ってこない。そして、頭を下げるのを忘れて店内を歩いてしまった。予想どおり頭を天井にぶつけてしまったそのときだった。

「ふふふ」

向かい側に座る女性が上品に笑う。彼女の名前は美希というらしい。

「ああ、いま笑いましたね!たしかにダサいかもしれないですけれど、笑うことないじゃないですか……」

頭をぶつけた事実に恥ずかしくなった上に、それを笑われて僕の顔はすっかり赤面してしまっていた。

「あら、ごめんなさいね。可笑しくて、つい」

天井に頭をぶつけた男と、それを上品に笑ってみせる女。2人の最初の出会いはそんな感じだった。最初の印象は、きれいに整えられた長い髪がとても美しいだった。彼女の長い髪につい見惚れてしまった。この人を逃したくないと思った瞬間にはもう「よかったらお茶でもしませんか」と安易に口走っていた。

「お茶をするって、ここ喫茶店じゃない。ふふふ。おもしろい人ね。じゃあ場所を変えましょうか」

ついうっかりを発動してしまったことが、功を奏したのか彼女は僕の要望に応じた。喫茶店を後にして、3軒隣のバーへと足を運ぶ。バーでは2杯頼むがセオリーで、1杯だけだと「もう来ません」とお店に言ってしまっているようなものらしい。

バーの店内に入るとたくさんのボトルが並べられている。その中にあるマティーニはオーダーのハードルが年々上がっているらしい。だが、彼女は臆することなくマティーニを頼んだ。お酒に強いという彼女はよくここのバーで、1人でお酒を飲んでいるらしい。僕も負けじとバーボンを頼んだのだが、マティーニには遠く及馬なかった。

彼女がグラスをぐるりと回すと同時に揺れるリズムを立てるかのようにマティーニが揺れる。彼女の所作のひとつひとつがとても丁寧で、揺れる長い髪の美しさをより際立たせている。彼女は上品な笑いなのに、笑いの沸点が低い。くだらないことでも上品に笑ってみせる。そんな彼女のひとつひとつの美しさにいつしか惹かれ、僕は1日で彼女に恋に落ちてしまった。

数回のデートを経て、僕たち2人はただの2人から恋人という呼称の関係になった。お付き合いをしてすぐさま同棲がはじまり、高円寺に住んでみたいという彼女の要望もあって、高円寺の!DKの安アパートに住んだ。安アパートは美しい彼女には似合わない。それなのに彼女の要望で1DKの安アパートに住むことになった。

美希との生活はとても楽しかった。仕事終わりに一緒にご飯を作り、手を合わせていただきますを一緒にする。豪華なご飯ではなかったけれど、そんな些細な日常が好きだった。

休みの前日は、甘いものを食べるぞと深夜に手を繋いでよくコンビニも行った。昼前に起きて、適当に昼飯を済ませ、部屋で映画鑑賞。映画を観ていると隣ですやすやと彼女が寝ている。いつも最後まで映画を観れずに寝てしまう彼女。そして、「ねえ、あのあとどうなったの」と僕に質問攻めをする。
僕がくだらない話をするたびに、笑いの沸点が低い彼女は、いつも楽しそうに「ふふふ」と上品に笑っている。フォトグラファーだった僕は、彼女が笑うたびに、彼女の笑顔をシャッターに切り落とした。

毎日のように彼女の笑顔を写真に残しているうちに、いつしか彼女だらけのアルバムができた。2人で撮った写真よりも、彼女だけが映る写真のほうが多い。それはきっと僕の存在が、彼女にとって不必要になるという暗示だったのかもしれない。

世の中は、結果論でしか物事を見ないようにできている。彼女しか映らない写真が残ったのもすべて結果でしかなくて、それが直接別れの原因になったわけではない。

いつも美しい彼女は、前髪をいつも切りすぎるお茶目な癖があった。前髪を切りすぎたそのたびに、僕に見られまいと、左手で髪の毛を隠す。そのたびに「どんな君でも綺麗だよ」とおどけてみせて、彼女の上品な笑いを誘ってみせた。

切りすぎた前髪の彼女を写真に残そうとするたび、彼女は顔を隠す。その所作もあまりにも綺麗だった。恋は惚れたもん負けだと言うけれど、今回ばかりはこちらの勝ちだと思えたそんな恋だった。

順風満帆に思えた生活に曇りが出始めたのは、僕に残業が増え、2人の時間を取れなくなってしまったためだ。少しずつすれ違いを重ね、いつしか歯車が噛み合わなくなる。ボタンは1つ掛け違えるだけで、ファッションとしての機能を果たさなくなる。この恋もそんな類の恋だった。

笑顔がすっかりなくなってしまった彼女。いつしか彼女を写真に残す機会もすっかり減ってしまった。すれ違いの原因はきっと2人にある。彼女だけが悪いわけではないし、僕だけが悪いわけでもない。

2人に原因があるからこそ、2人で問題に立ち向かう必要がある。恋はお互いがお互いに向き合わなければ続かない。どちらか片方が向き合うことを放棄すればその途端に、崩壊へのカウントダウンへ突入する。もはや手遅れだという段階で、関係の修復を試みたところで、その努力は報われやしない。

大きな障害があったわけではなく、小さな歪みがやがて大きくなり、取り返しのつかない状態になった。だから、このいつまでも続けばいいと思っていた恋が終焉を迎えた。ただそれだけのことなんだろう。

同棲を解消する当日、彼女は美容室で長い髪をばっさり切った。短く切った髪。それでもやっぱり君はきれいなままで、出会った当初からずっと変わらない。変わってしまったのはきっと僕なんだろう。もっと歩み寄れば、きっとこの恋は終わらなかったのかもしれないなんて考えてみたところで、結果はおそらく同じ結末を迎えていたにちがいない。

失恋をすると女性は髪の毛を短く切ってしまう人がいるらしい。きっとそれは過去との決別を髪の毛に込めているのだ。この出会いを無かったことにする。そして、新たな人生を1人で歩んでいくための決心。君の短い髪を見た瞬間にそんなことが頭に浮かんだ。「ああ、もう僕たちが戻ることはないんだ」って。きっとこれが最後、最後の最後まで君はきれいなままで、僕はちっとも変われないまま。

生ぬるい夏の風が君を連れ去ってしまった。テレビ台に並べられた2人の写真。2人が1DKの安アパートに住んでいたことは事実であり、もう過ぎてしまった過去である。1つだけ後悔をしていることを挙げるとするならば、やはり彼女に長い髪をばっさり切らせてしまったことを挙げるだろう。

彼女が歩くたびに髪が揺れる。髪をかきあげる仕草。彼女の美しい所作をより魅力的に引き立てる長い髪。彼女のぜんぶが好きだった。でも、もう2人は手を引き離してしまった。もう元に戻りたいだなんて言えないけれど、思い出はきれいなままで、そして、僕たち2人の間にたしかにあった愛も過去もずっときれいなままでありますように。

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