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棘と糸

「だからお前はダメなんだ!!」

社内に上司の怒号が響き渡った。俺だって頑張ってるよ。思わず口に出そうになった言葉を喉の奥に押し込み、「申し訳ございませんでした」とだけ言う。上司はその言葉を聞き流し、いつものように「だからお前はダメなんだ」と説教を始める。

「言われるうちが華。何も言われなくなったらもう期待されていないと思え」

上司は自分で選べない。希望した会社に就職できたとしても。次に待ち受けるのは配属ガチャだ。いい上司を引き当てればそこは天国、逆なら地獄への片道切符。何をやっても褒められない。それどころか、重箱の隅をつつくように粗探しをされる。自分が辞めるか、上司が辞めるか、どちらかが先に折れない限りは終わらない耐久レースの始まりだ。

デスクに戻った俺は、死んだ魚のような目をしていた。何もやる気が出ない。Googleカレンダーが今日の原稿の納期を告知する。すぐに通知を消して、PCの画面を閉じた。やる気をどこかに落としたのかもしれない。今日は早く家に帰って気分を切り替えてから続きをやろう。社内にずらりと並ぶ同僚たちの痛い視線が背中を刺す。もうあいつは終わったと聞こえる。いや、まだ始まってすらいない。

就職活動を本気で頑張り、憧れていたライターの仕事にありついたものの、なかなか文章が上手くならない。日が経つごとに増える赤ペンの修正が、自らの傷を映し出す。努力が報われないのは当たり前、どんな世界も生半可な気持ちでは成功しない。終業時間になっても原稿が書き上がらず、上司に叱責される。いつもは負けず嫌いが功を奏してやる気が漲るのだけれど、ピンと張られていた心の糸がぷつりと切れた音がした。

責任感から逃げるように会社を後にする。終業時間はとっくに過ぎているのに、フロアの明かりはまだどこも消えていない。彼らのやる気はどこから来るものなのだろうか。たくさんの記事が読まれても褒められるわけではない。この会社で結果を出しても、大きな仕事に繋がらない。世に名を知らしめるライターはほんの僅か。挫けずに努力すれば、自分がそこにたどり着けると信じているのだろうか。

今は、好きだったはずの文章を読みたくない。好きが嫌いに変わるきっかけは突然やってくる。それは自分の才能がないと悟ったときだ。上を目指せば目指すほどに至らない部分が露呈する。こんなに書けなかったのかと後悔する日々が続き、書くモチベーションはどこかへ消え去っていく。

「有名になりたい」は「いい文章を書きたい」と比例する。だが、思いの強さだけで上達するほど、この世界は甘くない。書けば書くほど、赤ペンが入れば入るほど、心が蝕まれていく。モチベーションは成功体験によって維持されるものだが、「お前はダメだ」と言われ続ける環境では、一つも成功体験は積むことができない。上司の意見は間違っていない。ただ俺に書く才能がないだけだ。

文章を書き始めたのは、幼少期におばあちゃんに褒められたことがきっかけだった。その日に起きた出来事を書いた日記を読んだおばあちゃんが、「表現が素敵だね」と褒めてくれた。それが嬉しくて、文章にのめり込んでいった。学生時代に書いた小説は何の賞にも引っ掛からなかった。エッセイにも挑戦したが、吹けば飛んでいくようなお粗末なものだった。それでもおばあちゃんが褒めてくれたから、書くのをやめることはなかった。

おばあちゃんの家にはたくさんの小説が並んでいた。たくさんの本に触れたおばあちゃんの言葉は、自分に才能があるかもと勘違いするに値した。その結果がこのザマだ。おばあちゃんの言葉は親心だった。俺に才能があったわけではない。

ずっと勘違いしたまま生きていたかった。自分の記事が世に公開されるたびに、勘違いという魔法が少しずつ解けていく。文章を書く才能がない。知りたくなかった残酷な事実が宙を舞う。ひらりひらりとどこかへ消えた勘違いは戻ってこない。かつて「自信がないならつければいい」と上司が言っていた。でも、失った自信を取り戻す方法は誰も教えてくれなかった。

書けば書くほど、他人の文章を読めば読むほどに、上には上がいると思い知らされる。文章で頂上まで上り詰めるはずだった。いつか何かの賞を獲っておばあちゃんに見せたかった。おばあちゃんの褒め言葉をポケットの中に大事にしまっておきたかった。

最寄駅前のたばこ屋にたむろしている若者たちがいる。彼らは自分の未来が素晴らしいと信じているのだろうか。その中の一人が目をキラキラと輝かせながら将来の夢を語っている。大学を卒業したら警察官になるらしい。揺蕩うタバコの煙が目に沁みる。あまりにも眩しい光景に居心地が悪くなり、すぐにたばこの火を消してその場を離れた。

コンビニの店員が「本日から1週間唐揚げくんがセールです」と声を上げる。惣菜とお酒をレジに持って行くと、破れてしまった袋があるので無料でつけておきますねと言われた。ありがとうございますと言えなかった。不服そうな僕を見て、無言で袋に商品を入れる店員。店員は何も悪くない。自分自身の不甲斐なさに苛立ちを覚えた。

心が疲弊している。他人の好意にすら嫌悪感がある今の状態は普通じゃない。才能がないという厳しい現実が、やめてしまいたいという気持ちを沸かせる。川沿いの土手でコンビニで買ったものを広げる。水面に弾けた何かが顔にぶつかった。濡れた頬がさらに涙を呼び込む。張り詰めていたものが一気に弾け飛んだ。俺は有名なライターにはなれないと悟った瞬間、好きな文章を仕事にできているだけでありがたいと思えという声が聞こえた。

誰もが一流になれるわけではない。栄光の裏に涙を流す人はごまんといる。だが、俺の書いた文章によってたった一人でも読んで良かったと思ってもらえるなら、それはライター冥利に尽きる。家に帰って、PCを開く。納期まであと3時間。ギリギリ間に合いそうだ。背筋を伸ばし、キーボードを打ち込んだ。

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