茅ヶ崎の海は、まだ泳ぐのに、安全でも適切でもありませんでした
ふと、海が見たいと思った。
東京に移住してから早3ヶ月が経ち、都会の喧騒に少し疲れが見え始めていた。以前住んでいた場所には大きなビルはなく、どこまでも視界が良好で。仕事終わりに晴れ渡る空を眺めては、心の安寧を取り戻していたなぁと物思いに耽る。そんなゆらりとした日々とは真逆の生活を送り、このままでは心が折れてしまうと考え、平日に休暇を取って海に行こうと決めた。
東京から足を運べる海といえば熱海や鎌倉、横浜あたりがすぐに頭に浮かんだのだけれど、人の少ない場所がいい。そう考えた時に頭に浮かんだのが、茅ヶ崎だった。サザンオールスターズの桑田佳祐さんの出身地である。湘南・新宿ラインの電車に1時間半ほど揺られながら、目的地を目指す。車内でどこに行くかについて考える。道中でいろんなお店を調べる時間はとても楽しいものだ。行きたいと思っていた喫茶店の情報を見ると、なぜか水曜だけ24時間営業になっていた。どうにも嫌な予感がする。
旅のお供に小説は欠かせない。太宰治の『ヴィヨンの妻』を車内で読んだ。『ヴィヨンの妻』のモデルは「フランソワ・ヴィヨン」という15世紀のフランスの詩人である。酒と女性に狂い、強盗や傷害事件を起こして処刑された人間としては失敗したが、世に名を知らしめた詩人だ。主人公である。主人公の夫も遊び人だが、妻という救いの存在のおかげでヴィヨンとは違う結末を迎えた。学生時代から何度も読んでいる本なのだけれど、なぜか読みたくなったため。リュックの中に忍び込ませていた。
電車が流れると共に喧騒的な景色が静寂を取り戻していく。海が見えれば完璧だったのだけれど、現実はそう甘くない。気がつくと、茅ヶ崎駅に着いていた。駅構内に流れるサザンオールスターズの楽曲。ああ、茅ヶ崎にやってきたんだと実感した瞬間だった。Googleマップに24時間営業と記載されている喫茶店に足を運ぶと、嫌な予感がズバリ的中し、まさかの定休日だった。きっとGoogleマップの使い方がわからないんだろうなぁと思わず店の前で笑みが溢れる。気を取り直して、恋人に教えてもらったカフェへと足を運ぶ。歩いて5分程度で目的地の『MOKICHI FOODS GARDEN』に着いた。
テラス席で談笑するマダムたち。犬を連れて歩く男性。店内から聞こえてくる大きな笑い声。緑に囲まれた都会の喧騒を忘れさせてくれる空間に心が高揚する。ここはパン屋さんやご飯屋さんなど様々な店舗が併設された複合店舗だ。パン屋さんでパンを選ぶ。どれも美味しそうで全部食べたかったけれど、お腹の容量は限られている。明太フランスとモッツァレラトマトを購入した。本当は海を見ながら食べるつもりだったのだけれど、店員さんとの会話が弾んでしまって、なぜか店内で食べることに。食事をしている最中に、とあるマダムたちの会話が耳に入ってきた。
「世間では離婚って良くないものとされてるじゃない? でも私は離婚したことで肩の力が抜けて楽になったし、あの生活を続けることの方が自分にとって良くないと思ったのよ」
結婚はゴールではなく、スタートラインに立ったに過ぎなくて。それが自身の幸せに繋がらないのであれば、離婚も選択肢にあってもいい。何よりも楽しそうに会話をするマダムの顔がその選択が正解だと物語っていた。自分の幸せを優先することは人生において大切な要素だと思った。
お店を出て駅に戻り、サザンビーチへと向かう。徒歩20分ぐらいの道のりの中で、サザンオールスターズの楽曲をランダムにして聴いた。それにしても今日は暑い。歩いているだけで背中が汗ばむ、リュックを背負っていたため、徐々に汗ばむシャツがなんだかもどかしい。茅ヶ崎はチェーン店よりも個人商店の方が多い。それは地元を盛り上げたいという気持ちの現れなのだろうか。自分の住んでいる場所に誇りを持てるのはとてもいいことだなぁと勝手に思いながら海を目指していた。
ようやくサザンビーチに着いた。地平線の先が見えないほど大きな海を見た瞬間になぜか涙がこぼれそうになる。爆音で流れるクラブミュージック。釣りを楽しむ人。マタニティフォトを撮影している幸せいっぱいのご夫婦、日焼けをしている人、海水浴を楽しんでいる人もいて、さっきまで都会にいたことをすっかりに忘れてるほど長閑だった。
今回の旅では、小説を2冊リュックの中に忍び込ませた。残りの1冊は江國香織さんの『泳ぐのに、安全でも適切でもありません』である。この本は絶対に海を眺めながら読みたいと思った。終わりはまだやってこない。でもいつか終わりは必ずやってくる。それを受け入れることの虚しさとちゃんと終わるという安堵感。小説のタイトルのように、広大な海はまだ泳ぐのに、安全でも適切でもないように思える。地平線の先が見えない広大な海を目の前にすると、今抱えている悩みのちっぽけさが可笑しくなった。そして、大切な人と共にこの美しく煌めく青を見たいとも思った。
その後、海の近くにあるカフェに寄った。どうやらここは友達ご夫婦で運営されているようだ。東京の喧騒に揉まれ、たどり着いた場所がここ茅ヶ崎だった。不動産を営みながら、カフェを運営している。「茅ヶ崎の人は緩やかだけれど、自分の中に確固たる軸を持っている人が多いのよ」と店員さんが言う。彼女の目の奥に秘められた燃ゆる火種がなぜか眩しく見えた。同時に、温かい人がたくさんいる茅ヶ崎の魅力を垣間見たような気がした。
店員さんと談笑を続けているうちに、あっという間に日暮れになろうとしている。お会計を済ませ、カフェを出てまた海に向かう。部活動帰りの少年たちがアイスを片手に楽しそうに笑っていて、あんな時代が自分にもあったなぁと昔の面影を重ねる。一人で海へ向かう女性や手を繋いで海を向かう人もいた。彼らはこれからどのような思いで沈みゆく赤を眺めるのだろうか。一人ひとりが違う目的を持って生きていて、今回の動機もそれぞれ異なる。見ず知らずの人の物語を勝手に考えてしまうのは、完全の僕の悪い趣味だと思う。
少しずつ煌めきを失って黒くなる青がとても綺麗だった。何枚も写真に収めてしまうほどに青に夢中になって、嬉しさのあまり恋人に写真を送りつけた。綺麗だねなんてありきたりな言葉が返ってきたのだけれど、綺麗なものを見た時にすぐに共有できる人がいる自分は幸せなんだと実感した。
日が暮れて、夜が来る。1時間ほど海をぼーっと眺めたので、お次はお楽しみの飲酒タイムだ。駅前に戻って、恋人のおすすめの居酒屋へ足を運ぶ。1日の終わりは生ビールに限る。店員さんやお客さんと会話をするのがとても楽しい。初めてきた余所者の僕に対して、とても温かい対応をしてくださったことが何よりもありがたかった。
そういえば茅ヶ崎に着く前はどこかのカフェで仕事をしようと思っていたのだけれど、旅の道中で一度もPCを開かなかった。普段の自分はよく頑張っているし、たまにはこんな日があってもいい。そして、居酒屋を後にし、帰路に着く。電車に揺られながら、また好きな街が増えたと思わず笑みが溢れる。
長閑な風景が過ぎ去り、都心に近づくたびに乗客が少しずつ増えていく。ああ、現実に引き戻されていくのかと少し寂しく思えた。茅ヶ崎の長閑な街並みとそこに住む人たちを好きになった。また心がダメになったら行きたいと思える場所が増えたことが何よりも嬉しい。
駅に着き、地上に出た瞬間に、大きなビルと大量の人並みが一気に僕を現実に引き戻す。大きなビルが聳え立つ都会の喧騒の中に、大量のネオンが寂しそうに並んでいる。ここは生きるのに、安全でも適切でもありません。そんな言葉がどこかから聞こえた気がした。
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