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ハチガツノナミダ

梅雨が明けたにもかかわらず、天気は連日雨ばかり予報している。八月はカラカラになった天候が相応しいのに、なぜこうもうまくいかないのだろうか。

夜、眠れなかったときに連絡をする都合のいい相手がいる。彼は私が好きだけれど、私に好きの感情はない。自分が都合のいい関係だと理解しているのに、いつでも連絡に応じる姿勢には愛を感じる。そんな彼に申し訳なさを微塵も感じずに、いつも私は彼を急に呼び出す。

適当に居酒屋でお酒を飲む。彼はビールで、私はハイボール。いつだって気が合わない。美容師の彼はいつも顧客の話をするのだけれど、その話が本当に面白くないから、適当に相槌を打ちながらいつも聞いている。もし彼と付き合ったとしても、うまくいかない未来が簡単に想像できて、笑いが止まらない。笑う私を見て、彼は自分の話が面白いと勘違いしていた。本当に都合のいいやつだと思う。

お店を出て、どこ行こかって訊ねたところで、行くところはいつも決まっていた。ネオンに包まれた街に繰り出す。ネオンがついているラブホテルに入って、少し高めの部屋のパネルにタッチする。そして、彼の愛に応じる。でも、合成ゴムの隔たりが彼の愛を拒んだ。寂しさを紛らわせるのであれば、誰でも良かった。埋められない穴を埋めてくれるのであれば、そこに愛はなくてもいい。

事後、シャワーを浴びている間に、彼は眠ってしまった。ラブホテルの装飾はたまらなくいい。下手なビジネスホテルに泊まるぐらいなら、私はラブホテルに泊まると決めている。ベッドが広いし、部屋ごとに変わるデザインはいつも心を躍らせる。どうせ空いた心は埋まらないのだから、別に1人でもいい。1人でホテルのなかを堪能し、こんなに楽しいのに寝ちゃうなんてもったいないなんて、思いながら彼の寝顔をじっと眺めていた。

ラブホテルは、サービスが充実している。アメニティに凝っている場所もあるし、フードサービスも充実している場所が多い。従業員と顔を合わす機会もなければ、頼んでおけば朝食も勝手に出てくるし、最後まで二人だけの世界を堪能させてもらえる。

小さな座椅子に座り、相手が持ってきていたタバコに火をつけた。バスローブに吸い殻がつかないように気をつけるのだけれど、これ自分のものじゃないし、まあいいかとどうでも良くなった。普段はタバコを吸わない私は、ここでなら吸ってもいいというルールがある。タバコを吸って、息を吐く。出ていったものはタバコの煙と、もはやなくなったに等しい私の心。慣れない煙に咽せている最中もあいつは目を閉じたまま動かない。抜け殻になったこの体は、もはや自分のものではないのかもしれないと勝手に虚しくなった。

喜怒哀楽では回らなくなった私の世界。いつからこうなったのかと振り返ると、失恋がきっかけだった。3年付き合った人に価値観が合わないという理由で、2年前の八月に振られてからおかしくなった。3年も我慢させていたという申し訳なさと、3年もわからなかったの?という怒りが込み上げてくる。うまくいっていると思った恋はどちらかが我慢していると聞いたが、まさにその通りだ。

失恋には何かを変えるのがいいと聞き、長い髪を美容室で切った。まさか失恋ですか?と聞いてきたバカ丸出しの美容師がこいつだ。今ごろ失恋で髪を切る人なんていないでしょと笑っていたのだけれど、いままさに目の前にいるではないか。

何回か髪を切ってもらっている間に、彼は都合のいい相手になった。こちらは遊びのつもりが相手は本気になっていて、正直いまも困惑を隠せない。どうせ彼の愛には応じられないからと、いくら断っても、彼はそれに応じない。都合のいい相手でもいいですからと、この未来のない関係性は始まった。

もしかしたら失った彼を、美容師のこいつに重ねているのかもしれない。でも、愛などとうに忘れてしまった。残っているのは誰かを簡単に傷つける自分自身だけ。もっと自分を大切にしなさいという友の助言を無視した結果、もう勝手にしてと大切だったはずの友を失った。なぜ私は生まれたんだろうという疑問。答えはいつも自分のなかとかうるさいし、黙っててほしい。もはや答えはないし。あったところでそれを求めるわけでもない。

小鳥の囀りが聞こえる。まもなく朝が来るみたいだ。夜で隠していたはずの感情が、すべて顕になるのが怖い。あ、起きたんだ。うん。先に寝てごめんね、いいよ。ぎこちなくなった笑顔と欠落した感情を前にしても、彼は笑っていた。タクシー代をもらって、彼を置いて部屋を後にする。汚れきった体に昨日と同じ服をまとって、何事もなかったかのように、今日も私は会社に出社する。それもこれもぜんぶ、八月のせいだった。

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