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ライバルに勝とうとしないこと

サマリ

ライバルに勝とうとする精神は不健康。なぜなら、人生も仕事も、スポーツのように合意の取れたルールや勝敗を決める判断基準のある「有限ゲーム」ではないからです。私たちが毎日参加しているゲームは、
1.前に進んでいること
2.ゲームに継続的に参加していること

をルールとした「無限ゲーム」です。
無限ゲームに参加し続けるためには、比較対象をライバルではなく過去の自分に置き換え、昨日の自分より今日の自分は前進している手応えがあればいいのではないでしょうか。

どのゲームに参加しますか?

私たちの社会は資本主義で成り立っている以上、「競争」と「比較」からは逃れられないと思います。今、不健康な競争や比較をしているのであれば、「競争」をどのように自分にプラスな影響を与えれるのか、何を対象に「比較」をするのかを変えていく必要があります。

そもそも「比較」ができるのは、環境、仕様、仕組、基準、条件が揃ったときにだけです。

家電を買いに行くときを想像してみてください。冷蔵庫とテレビの比較なんてできませんが、冷蔵庫同士は比較ができます。冷蔵庫には仕様、家電として比較基準があるためです。
英語では、Apples and Orangesというフレーズがあるように、条件が揃っていないものを比較しても、何も意味がありません。

では、「人」はどうでしょうか?
あなたとライバルはお互い冷蔵庫の関係で、正当な比較ができるのか?それとも、冷蔵庫とテレビの関係なのか?仮に、比較ができるとしたら、冷蔵庫の機能や仕様に当たる比較基準は何?誰がそれを決めた?お互いが合意した比較基準やルールがないのに、どのように勝敗を決めるのでしょうか?

サッカーでも将棋も、お互いが合意したルールと基準を元に勝敗を決めるゲームです。「ライバルに勝った」の精神は、自分の頭の中で勝手に独自にこじつけた基準とルールで運用されて、優越感と安心を味わうためだけにあるのではないでしょうか。

比較を否定している訳ではありません。比較がないと、前進も後退も気付くことができません。問いているのは、どのゲームにあなたが参加するかです。(=何を比較対象してどんな基準を元に勝敗を決めるか)

人生は「有限ゲーム」ではなく「無限ゲーム」

Simon Sinekの Infinite Game (訳:無限ゲーム) から引用しますが、
https://www.youtube.com/watch?v=3vX2iVIJMFQ&feature=emb_title

私たちの人生には、勝敗が決まる「ゲーム」はほとんどありません。

スポーツのような参加者が決まっていて、合意のとれたルールで競い、点数制度など勝敗を決める「有限ゲーム」とは違い、人生や仕事には比較できる基準がありません。

なので、人生の勝ち組、負け組のフレーズはナンセンスです。
誰がそのルールを決めた?何をもって勝ったのか?

私たちが参加しているのは「無限ゲーム」であり、参加者が無数にいて、前に進むこと、そして「ゲーム」に参加し続けることに本質があります。それが勝利なのです。

比較対象は、過去の自分です。だからこそ、infinite (無限)に続きます。過去の自分に勝つ必要もないのです。前進して、参加し続けていれば勝っているのです。

これはビジネスでも同じで、競合に勝つことではなく、自社のValueが前進して顧客にサービスし続けられていればいいのではないでしょうか。

「無限ゲーム」の勝利は継続参加と前進していること

自分よりも何かに優れてる人間がいるとします。自分よりプレゼンが上手な同僚でもいいし、冷静な判断ができる器の大きい彼でもいいし、自分よりもお金をもっている人でもいいです。

「有限ゲーム」の参加している人は、「この競争に勝つこと」に集中しているため、嫉妬し、空虚感を感じることが多々あるでしょう。敵対もするでしょう。

そして仮に、「相手に勝っている」感覚を持ったとしても、終わりがありません。競争のアンテナをはってるために、次々と挑戦者が現れます。そして彼らにも勝ち続けなくてはいけません。それほど苦しい、ストレスのかかる連鎖はないでしょう。

「無限ゲーム」に参加している人は、「このライバルにおかげで、自分の弱点をみつけれた。ありがとう。僕は見習って改善していこう」と考えます。

決してライバルに勝とうとしません。過去の自分より前進していればいいんです。

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