年越しに、ジャンプを。【掌編小説(約1600字)】
「あって当たり前、なんて思ったら駄目だと思うんだ」
と脈絡もなく、彼女が言った。いつものことだ。
「何のこと?」
「日本はもうすぐ年越しの時間になるわけでしょ」
「まぁ時間的に言えば、そうだね」
「いま日本があって、そして地球があって当たり前と思ってるわけだ。私たちは」
「まぁ、そうだね」
数年前に日本を離れて、僕たちは一緒に暮らしはじめた。慣れない土地はやっぱり不安で、周囲のひとたちの人間関係やいまの仕事だったり、うまくいかないことは本当に多かったけれど、彼女がそばにいてくれたから、なんとかやってこれた。
初めて彼女と会ったのは、もう十年以上前だ。まだ当時の日本の元号は令和だった。その時はこうやって一緒に暮らして、互いに愛し合う関係になるとは思っていなかった。籍は入れなかった。僕たちの周囲で法律上の婚姻関係を結ぶ者はすくなかったし、いまの僕たちの現状を考えると、あまり意味のあるものに思えなかったからだ。
彼女とは大晦日の夜に出会った。
雪の降る年末の寒い時期に、僕の住んでいたマンションの前で、彼女はぐったりしていた。仕事の同僚と大量に酒を呑んで、気付いたらここにいた、と酔いが覚めつつあった彼女は、申し訳なさそうに笑っていた。僕は部屋で彼女を休ませることにした。ひとり暮らしの男性の部屋に女性を入れる抵抗感はあったが、寒いしちょっと入れてよ、と言われたのだ。知り合ったきっかけは、そんなに良いものではなかった。
彼氏に振られてね。自棄になってたんだ。もしあの時、あなたが手を出していたら、受け入れていた、と思う。でもその代わり、付き合うことはなかったかな。
あれからもう十年以上の月日が経ったなんて、嘘みたいだ。
「年越しに、ジャンプ、ってしたことある? ほら、年越しの瞬間、私たちは地球にいなかった、ってやつ」
「子どもの頃は、ある、かな……」
「そう言えば、私たちってしたことないよね」
「柄じゃないでしょ。僕たちの」
「勝手に私たちに纏う雰囲気を、あなただけで決めないで」
と彼女が笑う。
「ねぇ、久し振りにやらない?」
「正確な時間なんて分からないでしょ。日本がいつ年越しか、なんて」
「大体でいいんだよ」
ねぇ私には夢があるの。
そんなふうに彼女が語りはじめたのは、いつだったか。確か、出会って二年目の冬だったような気がする。もし良かったら一緒に行かない、とその夢のある地点に、彼女が僕を誘った時、とても不安そうな表情を浮かべていた。僕が断ると思い、そしてその返事を覚悟していたからだろう。
だけど僕は彼女の夢に寄り添うことにした。
「いいよ。じゃあジャンプしよう」
うん、と彼女が笑う。
「いくよ。せーの」
そしてジャンプから、僕たちはゆるやかに着地する。
「これで、僕たちの年越しの儀式は終わり、かな」
「いま、私たちは地球にいなかったわけだ」
と彼女が冗談めかして言った。
「もう最初からいないでしょ。僕たちは地球に」
「まぁ、ね。ちょっと怖くなって。最近すこしずつ消えていくの。地球にいた頃の記憶が。あって当たり前だった、地球も、そして日本も。ここにいたら、本当はそもそも存在しなかったんじゃないか、って思えてきて」
見上げると、青みがかったほの暗い空がある。日本では見ることのできない、異界の夜空が明ける瞬間はまるで違って、初めて見た時はその幻想性に息を呑んだ。だけど慣れてしまえば、それはもう日常だ。故郷にいた頃と、何も変わらない。
「帰りたい?」
「うーん、ほんのすこしだけ。巻き込んだ私がこんなこと言ったら駄目だよね」
「いや、そんなことないよ。僕は付いていく、って僕自身で決めたんだから。まぁ時間はあるんだし、迷いながら、ゆっくり決めていこう」
場所よりも、大事なのは僕たちの心だ。
あっ、言い忘れてた。
「あけましておめでとう」
「うん。あけましておめでとう。これからもよろしくね」
【了】