雪月夜に、彼女は。【掌編小説(約3000字)】
降り積もってから、まだそんなに時間の経っていない新雪が、紅く染まっている。
やっぱり、雪は真っ白なままがいいね。
と誰かが言っていたけれど、いま僕の目の前にある光景を見たら、どう答えるだろうか。聞いてみたいけれど、誰が言ったのかも思い出せない。なんでこんなことになってしまったのだろう。
事のはじまりを探して、記憶を巻き戻してみると、仙台の実家に帰省して三日目の夜、悠梨がいないことに気付いた時点が一番適切な気がした。悠梨は僕の婚約者で、東北に来るのなんて初めて、と楽しげに深々と痕の付く雪を見ていた。
僕の実家の両親と悠梨が顔を合わせるのは、今回が最初で、緊張するね、と笑っていたが、表情はいつも通りだった。彼女とは同じ会社で働いていた頃からの付き合いで、もう三年近く経つが、恋人同士になったのはもっと後のことだ。彼女が別の会社に転職した、いまから一年ほど前に結婚を視野に入れた交際がはじまった。あっけらかんとした物怖じしない性格は、僕にはない彼女の魅力だ。初日のうちに実家の両親とも仲良くなって、そしていまが三日目の夜だ。
昼頃まで降っていた雪はもう止んでいて、くっきりと丸く形を成す月明かりが地表を覆う雪面を照らしていた。きょうは綺麗な雪月夜ができあがっていたわけだが、その幻想的な光景はどこか僕に不安を与えた。そんな中で、悠梨が姿を消した。ここに彼女の知り合いがいるわけではない。すくなくとも僕が知る限りは。実家に居づらくなったのだろうか。そんな雰囲気はなかったけれど、彼女自身の心までは分からない。もしかしたら母との間でちょっとした諍いがあったのかもしれない。雪の夜道は特に危ないので、とりあえず僕はブルゾンを羽織り、外に出ることにした。
足跡がある。
彼女の残したものだろうか。彼女の足跡に合わせながら歩くと、車道の雪の轍で、綺麗に残っていた足跡は不明瞭なものに変わってしまっていた。そこからは轍に沿って歩く。ゆるやかな勾配の坂道をのぼっていくと、やがてそこには僕が幼い頃、よく遊んでいた公園がある。もうだいぶ遊具は撤去され、とても寂しい場所になった、と聞いている。
離れた場所に、ふたつの背中を見つけた。
遠目にも、男性と女性に見えるふたつの姿が公園入り口の照明に当たって、僕は思わず息を呑んだ。男のほうが誰かは分からないが、長い黒髪を編んだ女性の後ろ姿はいままでに何度も見てきたものだ。悠梨の姿を僕が間違えるはずがない。
東京にいる時点で、もう彼女の浮気は疑っていた。彼女は隠し事があまり上手ではない。おそらく彼女には別の相手がいる。どんな人物なのかはまったく見当も付かない。だけど僕のこの嫌な想像は当たっているはずだ。ただ僕はずっと見て見ぬ振りをしていた。問い詰めて、いまの僕たちの関係が崩れてしまうのが怖かったからだ。得策とは思わなかったが、僕にはこれ以外の方法が思い付かなかった。でも同時に、このままではよくない、という気持ちもあった。いつか彼女に直接、聞かなければ、と。
だけど、それはそれとして。
なんでこんなところに、その浮気相手がいるのだろう、という疑問はある。僕の実家のある場所で、堂々と浮気するなんてそんな危険なことをするだろうか。もともと浮気相手が仙台の人間で、SNSを中心に遠距離で繋がっていた、なんて可能性も考えられないわけではないが、そんな奇妙な巡り合わせは信じにくい。僕への嫌がらせの気持ちを込めた行動だとしたら、もうすこし浮気を仄めかすような気もする。
とはいえ、
実際にそこには、僕の婚約者と見知らぬ男の寄り添う姿がある。ただすこし気になるとすれば、ふたりの間には好意を重ね合うふたりには思えない、わずかな距離感があることだ。
僕は本当に彼女のことが好きだった。
噂に聞いていた通り、遊具はほとんど撤去されていて、ブランコとシーソーくらいしか残っていない。むかしよく同級生と遊びに使ったジャングルジムなんかは、もうない。僕の子どもの頃に落下して怪我をしたクラスメートもいたし、大人になって考えてみると、確かに危ない遊具だったのかもしれないなぁ、と感じもするけれど、思い出のひとつが影も形もなくなっているのは、やはり寂しい。一応、砂場は残っているのだと思うが、雪に覆われてしまって、いまは目に見える状態ではない。
彼ら以外、誰もいない公園の中央あたりで、ふたりが話している。僕と彼らの距離は徐々に近付いているが、ふたりが僕の存在に気付く様子はない。そして声が聞こえてくる。
なんで信じてくれないの。
きみの様子があんなにおかしくて、でも信じろ、ってそんなの無理があるだろ。
でも本当だから。お願い。信じてよ。
じゃあ、していない、って証拠を見せてくれればいいじゃないか。
そんなの、できないよ。
ほら。
悪魔の証明みたいなことはやめてよ。
すこし離れた場所からでも言葉の内容がはっきり聞こえてくるほど、ふたりの会話は激しくなっていく一方だ。男の声にも聞き覚えがある。いやもう気付いている。ただやっぱり僕はいつまでも駄目な人間だ。ここまで来ても、僕はその事実を認められないのだから。
そしてどうなるのか、
僕は結末を知っている。
男が何か鋭利なものを取り出し、顔の表情までは見えないが、悠梨が怯えた表情をしているのは分かる。叫び声が聞こえた。声を上げたのは、刺した側だったのか、刺された側だったのか。判断もつかないような絶叫だった。そして僕も叫んでいた。やめろやめろやめろ、と。そんなことをしても誰も救われない。
知っていながら、僕には何もできない。動けなかったわけじゃない。動いたところで、何もできないことを知っていたからだ。
揉み合いになった挙句、悠梨は彼に首を刺され、そして胸を貫かれて、やがて崩れ落ちた。
倒れた彼女を包む雪が、染みわたるように紅く染まっていく。
彼に近寄る。
僕と向き合う彼は、泣いていた。
もう事実から背けることはできない。わざと曖昧な振りをしていた自身の記憶を明瞭にしていく。
彼は、僕だ。
そしていまは三日目の夜ではない。
二日目の夜、だ。
二日目の夜、僕が悠梨を殺した時から、まだわずかの時間しか経っていない。
記憶の残滓が、きょうの彼らを追いかけてきたに過ぎないのだ。
落ちたナイフに目を向ける。僕がかつて趣味で使っていた大振りのアウトドア用のサバイバルナイフだ。決して人殺しのために使うものではない。だけど僕は使ってしまった。何かあった時のために、と持っていった、という都合のいい言い訳は、自分自身にしか通用しない。彼女との話し合いで、傷付ける以外の、何の目的がある。
雪面に落ちたナイフの血を、雪の融けた水が濡らしていく。
そして彼の姿が消える。
いや消えたのは、僕のほうかもしれない。いや、どっちでもいいか、そんなこと。
いまここで生きているのは、僕、たったひとりだけだ。
降り積もってから、まだそんなに時間の経っていない新雪が、紅く染まっている。
やっぱり、雪は真っ白なままがいいね。
あぁ、そうだ。この言葉もつい最近聞いたばかりじゃないか。
仙台へと向かう電車に乗っている時、雪景色に変わった車窓越しの景色を見て、彼女が言ったのだ。降り積む雪を気軽に見られる環境で育ったわけじゃない悠梨は、すごく嬉しそうな表情を浮かべていた。
どれだけ後悔しても、もう遅い。
そして、どこまでも僕は、弱い人間だ。
僕は雪月夜の、最期に見る景色を、しっかりと網膜に焼き付けることにした。
【了】