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【増補改稿版】過去からの声


「――――くんが、昨日の夜、亡くなりました」

 そう淡々と告げる担任の女性教諭と視線が合う。先生は口を動かし、声にならない声をぼくに聴かせた。「本当に、きみは何も知らないの?」と。そこで目を覚ます。夢が、遠い昔の久しく忘れていた情景を丁寧に描き出し、ぼくは彼を思い出す。夢でも偶然見なければ思い出すこともできないほど、世界は変わり、過去は急速に色褪せていった。

 玄関の戸を、こんこん、と叩く音は渇いている。

「たとえばきみに死が訪れる、として、何故きみはそこに希望を見出せないんだ」

 中学時代の友人だった。最近頻繁に、ぼくがひとりで暮らす物置のような家に顔を出す彼は、事あるごとにぼくを彼が所属するグループに誘い、ぼくはやんわりとそれを断り続けていた。この暗澹たる世界にもかすかにだが、まだ確かに希望は存在している。そう信じている者たちのグループがあり、彼もその集会に足繁く通うメンバーだった。彼らの作った元々は小さな集まりが、恐ろしいほど大きなコミュニティとなりつつあることは知っていたが、ぼくはそれをどこか冷めた目で見ていた。希望はある、と希望に類するあらゆるものを失ったこの世界で声高に叫ぶ姿は、滑稽にも映る反面、共感ができないわけではなかった。しかし彼らは決して「生きろ」とは言わない。現時点の世界に希望はなく、死後の世界にこそ希望があるのだ、と賛美し続け、彼らが「そうだ、そうだ」と言い合う姿はどこかカルト宗教じみている。ぼくには何ひとつ惹かれることのないものだった。

 彼を止める気はなかった。彼の残りわずかの人生を他人がとやかく言うものでもないだろう。だけどぼくも残りわずかの人生を他人に強いられる気はなかった。

 彼らの行為に惹かれないわけではない。
 世界は終焉を迎えつつある。それが人類の共通項となりはじめてからずっと、自殺者は後を絶たない。それは新聞やテレビ、SNSで数字や情報として知るだけではなく、実際にぼくの身の回りにいくらでもあった。それはカルト的に死に希望を見出したというようなものではなく、限られた生への絶望である。どうせ死ぬのだから愚かな行為だと思いつつも、心の奥底で強く共振している自分がいる。彼らにこそ、ぼくは惹かれる。そうやって自ら死を選べた者たちが羨ましい。心底、羨ましい。

 何故、きみは死を選ばないのか……?
 という内なる声に、ぼくはいつも苛まれている。

 何故、その声に抗おうとしているのか。ぼく自身分かっていない。生への執着心などすでに尽きてしまっているはずなのに、希死念慮がいつまでも行動と繋がらない。

 彼らのほうが人間らしかったのではないか。もう声高に「生きろ」と叫ぶ人間はどこにもいない。誰もがその言葉の虚しさを知っているからだ。

 不満そうな表情とともにぼくの家を出る彼の後ろ姿は年齢よりもずっと大人びていた。それは彼だけでなく、ぼくもきっとそうなのだろう。ぼくたちは環境のせいで、大人びた――あるいは達観した――雰囲気を持つようになってしまったが、年齢的に言えばまだ高校生でしかない。と言っても、長く高校には行っていない。子ども心に憧れた大人な自分は、本当に夢物語となり、ぼくたちは大人になることもなく人生を終えてしまう。希望に溢れた未来の存在しない世界で聳え立つ学び舎に何の意味があるのだろう。それはただの大きな廃棄物でしかない。学校も試験も何も無いことが楽しい、というアニメの主題歌がぼくの生まれるよりも前から存在していたけれど、実際にそれらが無くなってしまった世界は、こんなにも悲痛に満ちている。

 においが、残っている。彼が自身とともに連れてきた死の残り香が室内に充満していて、ぼくはすこしでもそれを外へ追い出したかった。窓を開けるためにカーテンに手を掛けたぼくの耳にカシャカシャと懐かしい音が聞こえた。雨音だとすぐには気付けなかった。もう長く見ていなかった、降り始めた窓越しの雨の光景に思わず息を呑んでしまったのだ。

 暗くて寒い状態が延々と続く日々の中で、快晴の空も、雨も、雪も、ほとんど見られないもなっていた。

〈ねぇ、きみは覚えてる?〉

 雨音の隙間を縫うようにして、声が聴こえた。幼いその声には聞き馴染みがあるが、持ち主はもういないはずだった。

 夢が記憶を刺激して、幻聴でも生んだのだろうか?

 ぼくは雨音に耳をそばだてながら、まだ大人になれると信じて疑わなかった頃を思い出していた。誰かと一緒に行動することが苦手だった小学生の頃のぼくには、たったひとり親友と呼べる少年がいた。彼は今の世界を知ることもなく、この世を去った。そんな彼はもしかしたら幸せだったかもしれない、と思ってしまう自分勝手な感情に嫌悪感を抱く。

 墓地のそばに建てられたぼくたちの過ごした小学校には、夜、幽霊が出没する。ある時期にわくように現れたその噂に惹かれたぼくたちは、夜の学校に忍び込んだ。あの日も雨で、不在の、しんと静まり返った校舎の窓を叩く雨の音はひどくうるさかった。

 ぼくたちは普段からそんな突飛な行動を取るような生徒ではなかった。ただ好奇心は人一倍強かったのかもしれない。恐怖を超えた好奇心を原動力にして、ぼくたちは夜の学校を歩き回った。

 幽霊が出る、と噂になっていたのは、三階の端にある今は使われていない教室だった。宿直の先生に見つかってはいけない、という不安もあり、お互いの靴音にさえ気を付けながらぼくたちは行動した。

 しかし、
 結局ぼくたちがその目標の教室に辿りつくことはなかった。

 宿直の先生に見つかったからだ。いや実際に相手の顔を見たわけではなく、L字型の廊下を曲がろうとする際に明かりを持った誰かが反対側を歩いて来ていることに気付いて、ぼくたちは隠れる場所も見つけられず、走って逃げるしかなかったのだ。走る音で相手に気付かれたぼくたちは静止の声を無視して、とにかく走った。

 小学校の頃、サッカーのクラブチームに入っていたぼくのほうが、一緒に逃げる彼よりもわずかに足が速く、ぼくと彼の距離が開いていくのは明らかに背中で感じ取っていたが、彼を気に掛ける余裕はなかった。

 ぼくが階段を駆け下りて、正面玄関辺りに着いた時、階段のほうから大きな音が聞こえた。転げ落ちるような音だと分かっていながら、ぼくは振り返ることなく、走り続けた。後ろから誰も追ってくる気配はなく、ぼくは雨を全身に浴びながら、家に帰った。両親からはかなりきつめに怒られたが、それでもぼくは、のほほんと、今頃、彼は先生にこってり絞られているだろうな、と考えていたのだ。

「――――くんが、昨日の夜、亡くなりました」

 そんなぼくの感情を突き落とすように、翌日の朝、担任の先生が淡々と告げた。それは決して大きな声ではなかったが、教室内によく響いた。先生は生徒全体を見回しているようで、実はそうではないことに気付いた。先生は明らかにぼくの様子を気にしているように見えた。

「本当に、きみは何も知らないの?」と。

 あの時もしも――。そんな考えが何度も頭に浮かんだ。あの時、振り返っていたら……。すぐに駆け寄っていたら……。もしもそんな行動が取れていたら、彼は生きていたのだろうか、と。いや結果は変わらなかったに違いない。そう言い聞かせても、自分の気持ちが晴れることはなかった。見捨てたという事実が変わることはないのだから。

 気付けば、ぼくは傘も差さずにかつてぼくたちが通っていた小学校を訪れていた。あの頃と同じようにずぶ濡れになっても、気遣ってくれる家族はもういない。

 日中でもひとの気配はまるでなく、ただ死んだようにひっそりと建っている。今の生徒たちは学校に籍が残っているだけで、書類上の存在に過ぎない。もう誰も通わない学校はどれだけ良く言っても廃校という表現が限界だ。

 髪や服から垂れる雫がぽたぽたと廊下の床を濡らす。彼が転倒し、命を落とした階段を通り過ぎ、ぼくはあの日ぼくたちが辿りつけなかった教室を目指した。そこに深い意味なんてなかった。

 残念ながら、その教室は閉ざされ、開くことができないようになっていた。ぼくはふぅと溜息を吐き、校舎の三階の窓から学校の隣にある墓地を見下ろす。

 そこに見知った顔を見つけた。

 傘を差したその女性はぼくが見ていることなど、もちろん知らないだろう。ぼくがどれだけ驚いているのか、もちろん気付いてもくれないだろう。女性はひとつの墓の前で、手を合わせ、花束を置き、車に乗り込み、去っていく。

 ぼくは早足で、女性のいた場所を目指す。墓の前には花束が捧げられていた。そして花束と一緒にプラスチックの袋に入ったメッセージカードが添えられ、そこには謝罪の言葉が書かれている。

『もう七年も経ちましたね』
 そんな風に言葉は始まっている。

 短い文章からは毎年彼の命日に彼の死を悼む先生の深い後悔が読み取れる。

 何故? そんなこと考えるまでもなかった。あのひとがあの夜、宿直で見回っていた先生だった。そう考えるより他にないじゃないか。

 あぁそうだ……もう世界がこんな状況になって、人の死が軽いものになってから三年が経つ。死があまりにも身近になり過ぎてしまって、ぼくは簡単に彼のことを忘れてしまったその間も、先生は彼の死と向き合い続けてきたのだ。

 息苦しいほどのこれは罪悪感だろうか……?
 雨に混じって流れた涙は、雨に混じって行方を失っていく。

「ごめん。忘れてて」

〈仕方ない。許してやる〉

 呆れたような声はきっと幻聴だろう。そんな都合の良い話なんてあるわけない。

 彼は、許してくれないかもしれない。草葉の陰でぼくへの恨みを募らせ続けているかもしれない。それでも……たとえそれでも、今日、彼の命日にここに来られて良かったと思っている。

 世界の終わり。そのカウントダウンは始まっている。来年どうなっているかの保証なんてないけれど、来年まだ世界が終わっていなかったら、ぼくも花束を携えてこの場所を訪れよう。来年、花束はふたつになっているはずだ。それまでは自ら死を選ぶわけにはいかない。

 何故、きみは死を選ばないのか?

 内なる声に抗ってきた理由がすこしだけ分かった気がする。ぼくにはまだやり残したことがある。長い短いなんて関係ない。彼との出来事を思い出した今日のように、忘れているだけ、気付いていないだけ……そんなことがまだまだあるような気がする以上、死んでなんていられない。

 正しいかどうかなんて分からないが、ぼくは今日も、生を選ぶ。

                            (了)

(オリジナル版)

(オリジナル版は初めて自ら参加の意志を持って参加した(?)一回目の教養のエチュード賞応募作品。ある時期まで長い間、自分の書いた小説の中で一番アクセス数の多い作品でした。今は違うけれども。もし良かったら、読み比べてみてください)

 併せて、

 こちらの小説も、もし良かったら。