鯖かトマトよりはナスビに、そしてそれ以上に劇的に。
まずはナスビの話だ。
子どもの頃、ナスビが嫌いだった。でも最近は悪くはないかな、と思い始めてきた。「悪くはないかな」なんて言ったら、夜、夢の中でナスビの精に説教されるだろう。でも好きで好きで仕方ないものとは言いづらい。嫌い→悪くない→(?)って状態で、今後どうなるかは分からない。好きになるかもしれないし、嫌いに逆戻りするかもしれない。どうせなら好きになりたいなー、と思うけれど、こればっかり味覚の問題もあるのでなんとも言えない。
嫌いだったものが変化していったのは、それだけではありません。
最近、劇的に変化したものがひとつあります。
自分の書いた小説です。
私は最初の頃、自分の書いた小説が嫌いでした。どのくらい嫌いかというと、トマトや鯖と同じくらい嫌いでした(ちなみにこのふたつは今も嫌いです)。なんでこんなもの書いてるんだろう、と思いながら書いてました。だから最初の頃、ブックレビュー(初期の私は本のレビュー一本で活動していたのです)はシェアするけれど、自分の小説はシェアしませんでした。だって嫌いだったんですから。好きなものしかシェアしないっていう考えにも反する。
レビューは書くから、自分の悪いところが余計に目に付いたのかもしれません。
じゃあなんで書いてるの、って言われると困ってしまうんですが、きっと書くこと自体は好きだったんでしょうね。noteで最初の小説を読み返して、ひどい出来だなー、と思いながらも気付けば投稿してました。小説を書いたのは本当に久し振りで、【投稿】ボタンを押す手が震えたのを覚えています。なんでわざわざ恥かかないといけないの……そんな気持ちもあったかもしれません。
気の迷い、みたいなものでした。
すこしだけ心境が変わったのは三作目でした。そんなに多くのひとに見られているわけではないこの状況なら、自己満足の趣味程度に続けて、たまにアクセス数を見たり、というのも楽しいのでは、という風に。久し振りで、さらに元々もうまくなかった人間でも続けていくと、すこしずつ上達していくのが実感できて、とても嬉しかった。その想いに比例するように、すこしずつ読んでいる方からの反応を頂くようになりました。それをとてもありがたいと思いつつ、素直に受け取ることのできない自分がいました。
だって私の作品だよ。まだ自分の作品が嫌いな状態なので、相手の言葉を信じたいけど信じ切れないんです。卑屈ですよね。分かってます。でも勘違いしないで欲しいのは、本当に嬉しかったことは間違いないんです。だからこれは自分自身の問題。
でもこんな自分でも自分の書きたいというものを書き続けて、たまにご縁のあった方から反応を頂いて……という生活を続ける内に、あのナスビのように「悪くないかな」って思い始めたんです。
初めて自分の創作をtwitterにシェアしたのは、今確認したら23作目(だいぶ飛びましたね 笑)でした。この頃には「悪くない」と思えるようになっていたんでしょうね。すこしだけ私の自分自身への想いが変わったわけです。
最近は「悪くない」から「好き」に変わりつつあるなー、とも思ってます。でもはっきり好きと言うのはまだちょっと恥ずかしいけど……。期間を考えれば、ナスビよりもずっと劇的ですね。もういつの間にか40作品を超えてしまった今は、小説を書いて投稿するのが、楽しくて仕方ありません。不思議ですね。あんなにも嫌いだったのに。
私は作品で何かを成したいとか何かを変えたいとか思っていません(今後のことは分からないので、今のところは、と付けておきます)。だけど小説を書くことで、変わっていく自分は嫌いじゃない。何のために小説を書いているのかと聞かれれば、きっと元気のない自分をすこし元気にするため、自分の感情の変化のため、くらいが私にはちょうどいいのでしょう。
でもこの変化は私ひとりの力で起こったものではなく、ご縁のあったみなさんとの繋がりのおかげだと思います。もう最近は卑屈ではなくなってきたので、あなたの〈好き〉という言葉はあなたが実際に伝えたかっただろう想いの量の二倍くらいで私の心に入ってきています(笑)
素っ気ないように思えるかもしれませんが、いつも本当に楽しんでます。
いつもありがとうございます(*- -)(*_ _)ペコリ