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雨に惑う

 傘を広げる。ぽたぽたと雨が降っていると思ったから。確かに音は聞こえる。だけどそれはおれの勘違いなのだろうか。

「別れるまでに返してくれたらいいよ」と付き合い始めた頃に、彼女が貸してくれた黒い傘はまだうまくいっていた頃のふたりをあらわす、あまい想い出だ、とかすかな感傷に浸ってしまう。ぽたぽた。その汚れが目立ち始めた傘の手元部分は赤くなっている。ぼんやりと見ながらおれは、傘を借りた日を思い出す。今では嘘のようにしか思えないが、あの頃は本当に彼女のことが好きだった。

 彼女に出会ったのはもう七年も前だ。おれは二十歳を過ぎたばかりの大学生で彼女は四つ年上の物静かな女性だった。いや当時のおれにはそう見えた、というだけで、親しくなった相手には意外とよくしゃべる女性だとのちに知ることになるのだが、その時はまだ知らなかった。陳腐な言い回しだと思うが、触れれば砕けてしまいそうな繊細な硝子細工を思わせる人だった。卒業した大学の先輩が就職した人手不足の会社がアルバイトを探していて、先輩の頼みを断りきれずそこのアルバイトとして雇われたのが出会いのきっかけだった。肉体労働が中心のお世辞にも待遇が良いとは言えない会社で、働いているのはほとんどが男、そんな会社に印象的な女性がふたりいた。そのうちのひとりが彼女で、おれは彼女のことが気になっていた。もうひとりの女性は快活な男性口調が印象的な人で、この女性のほうが多くの従業員から好感を持たれていたのは間違いない。とっつきにくい雰囲気を持つ彼女は従業員たちから距離を置かれていたように思う。だからかもしれない。同じくその場の雰囲気にそぐわず、周りから浮いていたおれは自分勝手に親近感を覚えたのかもしれない。積極的に関わるようになって、いままで知らなかった彼女を知るようになっていったおれは、親近感をこえて恋愛感情を抱くようになった。意外と自分に都合の良いところや喜怒哀楽が激しいところ、相手の話を聞かず急に自分の話ばかりをしだすところ。そんな良い面とはいいがたい部分や子どもっぽい部分も知るようになると、おれだけが知る彼女の一面のように思えて愛おしくなった。

 交際をはじめ、彼女の住むマンションを最初に訪れた日、おれは彼女とのセックスを強く望んでいた。恥ずかしい話だが、気が急いていた。まだ童貞だった。その事実にすごい劣等感を覚えていた。もちろんセックスをしたことのない男なんて実はめずらしくもないはずで、そこまで気にする必要なんてなかったのかもしれない。だけど周囲の同世代の奴らの話を聞いているうちに、中学や高校の頃と比べてもこれはかなり深刻なのではないか、と不安になってきた。

 結果から言えば失敗した。拒否をされたわけではなく、彼女がすくなくともその日はそういう行為を求めていないのが明らかで、おれはその彼女の態度を尊重した……わけではなく、ただ度胸がなかっただけである。その日は、帰ろうと玄関へ行くと同時に、強い雨の音が聞こえてきた。

「泊まっていく?」と聞かれ、「いや、それは、まだ……」と返してしまうおれは、やはり度胸がない。

「雨、けっこうひどいよ」

「大丈夫。そんなに遠くないし、走っていけば、すぐ着くよ」

「傘、持ってきてないよね?」

「うん。まぁ大丈夫だよ」

 落ち込んでいた気持ちとほっとした気持ちが半々で、いっそ雨に濡れたい気分でもあった。

「これ、使って」と言って渡されたのが、いま、おれの持っている傘だ。「別れるまでに返してくれたらいいよ」

 ぽたぽた。

 そんな昔話を何故いまさら思い出すのだろう。おれが思い出すべきは楽しかった記憶ではなく、にがい記憶だ。そうでなくてはつらすぎる。自分勝手だと分かっていても、つらすぎるのだ。

 あの傘の日の数ヶ月後におれは彼女とセックスして、そしてそれから七年間おれたちの関係は続いた。傘は一緒に住むようになってからは、つねに彼女の部屋に置いてあるので、正直もう借りているのか返したのかはよく分からなくなっている。よくこんなに人付き合いの下手なふたりが七年も続いたと思うが、もうおれは彼女を好きではなくなっていたし、彼女の心は分からないが、彼女も同様におれのことはもう好きではなくなっていたと思う。別に他の相手がいたわけではないが、おれは彼女から離れたいと思った。彼女も同じような気持ちだと思っていたが、離れたくない、とおれに執着した。その執着の原動力がなんだったのか、いまとなっては分からない。

 ぽたぽた。傘をつたって滴るその液体の正体にようやく気付く。

 血。きっとそれはおれにしか見えないのだろう。本物はおれの手に付着したその血だけ。彼女は死んでもなお、おれを引き止めたいのだろうか。その感情は憎しみなのか恨みなのか、それとも……。いや、もういい。

 もう交番は、すぐそこだ。そこへ行ってこう話すだけだ。

「人を殺しました。交際相手です。電話しなかったのは、自分でもよく分かりません」

 それだけだ。

 血の雨が強くなる。行くな、というように。

 気付けば彼女の部屋に引き返していた。

 振り上げられた包丁。記憶は正直あいまいだ。だが刃物を手に向かってきた彼女を、おれは刺していた。彼女は年々、感情の起伏が激しくなっていて、おれにとって接するのが苦痛な相手になっていった。そして果ては自分を殺そうとまでしてきた人間だ。結果としてはこうなってしまったが、そんな彼女を好きになれるはずがない。嫌いだ。そうおれは彼女を嫌いでいなければ、おかしいのだ。

 だけど、それでも彼女を嫌いになりきれない、それどころか彼女をまだ好きでいる自分が心の中にいることを自覚する。もうそんな気持ちは欠片も残っていないと思っていたはずなのに……。

 自分勝手な考えだということは分かっている。だけど……。なんでこんなことに。そんな思いが溢れ出る。

 彼女の身体に刺さった包丁を手に取る。雨の音が聞こえる。これは本当の雨の音なのだろうか。でもそんなことはどうでもいいか。もう外に出ることもないのだから。

 これは償いでもなければ、愛に殉じる行動でもない。理由なんておれにも分からない。あえて言うなら、あの見えない雨がおれを狂わせたのだ。正常な行動だとも思わない。

 自分で死ぬって、きっと難しいんだろうな……。

 ぼんやりとそんなことを考えながら、彼女の死に顔に自分の顔を寄せた。

「あの傘、返さないから。絶対に」


                       (了)