見出し画像

二流には分からない

 いつもお世話になっております。普段は本の感想を書いている書店員のR.S.です。掌編小説書きました。もし良かったら……。ホラーです。

『二流には分からない』

 足の裏のひんやりとした感覚に、私は思わず「ひっ」と小さな悲鳴を上げる。足元を見ると、うすぼんやりとした人の顔のようなものが笑っている気がして、吐き気が込み上げてきた。私はこの顔を知っていて、ここ数年、ずっとこの顔に悩ませられている。この顔さえなければ……。恐怖は徐々に憎しみに変わりつつあるのを私ははっきりと自覚していた。

 ぴんぽん、とインターフォンの音が部屋中に響きわたる。この妙な威圧感を持つ音が昔から好きになれない。時計を見ると、時刻は23時30分。来客にしては非常識な時間だが、インターフォンの映像に映るその顔は、私がずっと待ち望んでいたものだった。

「夜分遅くにすみません……。ずっと時間が取れなかったもので」

「いえいえ! 先生が来てくれて嬉しいです」

 私が、先生、と呼ぶその人は学校の先生でもなければ、弁護士の先生でもない。夜中にサングラスをかける美しい女性。彼女は、本名どころかそのパーソナルに関するすべてがトップシークレットの霊媒師であり、私も初めて会った時にお付きの男性から〈先生〉と呼ぶことを義務付けられた。いかがわしく、高額な報酬を取ることは知っていた。それでも私はわずかな可能性にすがるように彼女を頼った。

「時間も時間だったので、日を改めようと思ったのですが……」

 先生は、マンションの二階にある私の部屋に入るなり、申し訳なさそうに言った。私は慌てて首を横に振った。

「気にしないでください。私のほうこそ無理言っちゃって」

 先生の後ろにはスーツ姿の堅気とは思えない雰囲気を纏う男性がいる。先生の付き人だそうで、先生と同様、会うのは二度目だが、どうも私は好かれていない感じがする。

「いえ言ってくださって、良かったです。実はマンションの近くに来たくらいから、異様な雰囲気を感じ取ってはいました。それに一昨日あなたを見た時点で、これはすぐに手を打たないといけないな、とも思っていたんです。わたくしにはこの状況を数年我慢したあなたの精神力のほうが信じられない」

「ずっと怖かったのですが、言い出せなくて……」

 私は数年前からある男の霊に憑かれている。それが誰なのか、私には分かっている。この世に生を受けて25年、間違いなく私をもっとも一方的に愛した異性だ。

「よく頑張りましたね」先生が突然、私を抱きしめる。その行為に驚くが、後ろの付き人はいつもの無表情を浮かべている。見慣れた光景なのかもしれない。後頭部を撫でさすられると、気持ちが落ち着いてくるのが分かった。「除霊ももちろん行いますが、わたくし共は、依頼主の心のケアはそれ以上に必要なことだと思っております」

 先生は本物かもしれない。今までにも何人か霊媒師に依頼したが、誰もその幽霊のいる場所さえ見つけることができなかった。

「先生は、どこに彼がいるのか分かりますか?」

「もちろん」と、先生が微笑む。「この部屋には男性の低い呪詛がこだましていますから。きっとそうですね……」

 あっ、この人は本物だ。私の足元を見ている先生の眼差しが私を安心させる。

「声が明瞭に聞こえてきますね。彼の執着の強さが分かります」

「恨まれているんですね」

「ただの逆恨みに過ぎませんよ。ね?」と付き人が私を見ながら、意味ありげに言った。

「その通りですよ」と先生がその言葉に続く。「では、一昨日の話を再確認させていただきますね。ただし嘘は言わないでくださいね。わたくしは幽霊の嘘はもちろん、人の嘘も見抜きます」

「分かりました」先生の言葉に私は思わず息を呑む。「あれは三年前のことです。合コンで知り合った男性――S、としておきますね――と意気投合して帰りを送ってもらったんです。周りからはやし立てられたのと、すこしお酒に酔っていたのもあって最初は乗り気で送ってもらったんですが、すこし時間が経って酔いが覚めてくると、家に上げるのは嫌だなって思い始めて、自宅……このマンションの前ですね、そこまで来たところでお別れしたい旨を告げたんです。怒ったらどうしよう、と不安だったんですが、その時のSは、全然構わないよ、という態度で連絡先だけ交換して別れたんです。良い人だなってその時は思ったのですが、Sは翌日から異常なほど私に電話してきて、私が無視し始めると、私の家の前をうろうろするようになりました。さらには玄関のドアをどんどん叩いたり、怖くて知り合いの男性に注意をしてもらいました。すこしの間はそれでSの行動はいったん収まったのですが、落ち着いていたのは数週間程度のことでした。またSは、私に執着し始めました。だけど前みたいに直接的な嫌がらせをしてくることはありませんでした。無言電話とか尾行とか、陰湿なものに変わったんです……」

 思い出すと息が苦しくなってくる。

「大丈夫」と先生が背中をさすりながらも、しっかりと先を促す。

「そしてあの日……あの日、Sが私の部屋にいたのです。私、驚いてしまって……。Sを突き飛ばしたんです。そうしたら彼はあのうすい嫌な笑みを私に向けて、部屋から出て行ったんです。合鍵を持ってる? なんで、って私、怖くなって……当分、友達の家に泊めてもらおうって決意しました。すぐに友達の家に行って事情を話したら、全然良いよ、って言ってくれて、翌日の朝、荷物だけ取りに帰ろうとしたら、部屋に死体があったんです。胸にナイフを突き立てた死体……」

「自殺していたのね」

「はい。私、どうしていいか分からなくて……警察を呼んだら、自殺ってちゃんと判断されて、私、最低かもしれないですけど、ほっとしたんです」これは偽りのない本音だった。「やっと彼から解放されるって……だけど、そこからが苦悩の始まりでした」

「それがこいつなのね」先生は、床にあるぼんやりとした彼の顔を踏みつける。もちろん彼の顔が痛がることはない。「分かった。ありがとう。ちょっと気になることもあったから、確認したかったの。除霊自体は簡単だからすぐに済むわ」

 先生はどこまで気付いているのだろう。……いや、気付くはずがない。

 除霊は、先生の言葉通り5分もかからなかった。この時間に対してこの報酬だということに、「法外だ」と喚く者も多いのだと先生は楽しそうに話してくれたが、三年間、この顔に悩まされた者にとっては微々たるものにしか思えない。

 もうそこにあの顔はなかった。

 マンションの入口で車に乗り込むふたりを、私は頭を下げながら見送った。

 部屋に戻ると、大きく深呼吸する。もうあの顔に一喜一憂しなくていいことが嬉しくて仕方ない。

 それにしても……、

 今までの三流霊媒師に比べればまだましだが、あの霊媒師の先生も一流には程遠かったな。霊だけを退治してくれる二流霊媒師。私がもっとも求めていた相手だ。何が『ただし嘘は言わないでくださいね。わたくしは幽霊の嘘はもちろん、人の嘘も見抜きます』だ。すこし疑ってはいたみたいだが、何が私の嘘かは分からなかったみたいだ。一流の皮を被った二流だよ、あれは。本当に都合が良い。

 私の唯一の嘘……あのストーカーは自殺じゃない。あの日、部屋にいた私が悲鳴を上げて助けを呼ぼうとすると、あいつはナイフを取り出して私に襲いかかってきた。そして揉み合いになって、殺してしまった。もちろん殺意があったわけじゃない。殺す気なんてなかった。でも正当防衛と認められるかも分からない。こいつのために欠片でも罰を受けるなんて死んでもごめんだった。とはいえ自殺に見せかける細工は簡単なもので、自分の指紋を拭き取ったり、ナイフや死体の位置を変えたくらいで、実は諦めも混じっていた行為だった。自殺と警察が断定したのは、本当に幸運だった。あいつがストーカーという事実も大きかったのだろう。

 翌日から毎日見るようになったその顔は、私を見つめながら、俺を殺したお前を許さない、と私に笑いかけるのだ。

 でも、それも今日までだ。本当に力のある人ならば私の嘘に気付くかもしれない、というかすかな不安があったから、選ぶのはいつもいかがわしい人になった。ただそういう人たちは本当に能力の無い人たちばかりだった。

 今回の先生こそ、私が三年間、探し求めていた最高の、

 二流の人。

 私の歓喜に水を差すように、電話の音が鳴った。知らない着信番号だった。

「はい、もしもし」

「先生は、一流ですよ」それはあの付き人の声だった。「あなたくらいの嘘は見抜けます。あなたの良心を試したくての、あの再確認だったのですが、残念ながらあなたは嘘を吐いた。本当に残念です。先生は最初、あなたに同情的だったんです。もともとは被害者でもあるのだから、真実さえ語ってくれたら、ちゃんと、除霊してあげよう、って。だけどあなたは先生の気持ちを踏み躙った――」

 付き人はまだ何かしゃべり続けているが、私はもう聞いていなかった。

『ちゃんと、除霊してあげよう』?

 気付けば、私は足元に目を向けていた。

 そこには前よりも明瞭に、そして大きくなったあいつの顔が、

 私の影を覆い尽くしていた。

                           了