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戻れない春の挿話【掌編小説(約3600字)】

 おじぎするように控えめに咲くしだれ桜に挟まれた並木道を、あなたはひとりゆっくりと歩を進めていく。

 少女の頃の面影を残しながらも、あなたはだいぶ大人になった。

 幼い頃から自己評価が低いのかなんなのか、あなたの自分に自信の持てないところは相変わらずで、誰かがそう言えば、きっとあなたは首を振るだろう。だけど僕が保証する。

 あなたはとても綺麗になった。

 僕を置き去りにするように、本当に。あなたにそんなことを直接伝えたりはできないのだけれど、ずっとあなたを見てきた僕の想いがかすかにでも届いているのならば、信じてほしい。

 いま二十歳を迎えて、久し振りに幼い頃を過ごした景色の中にあなたはいる。

 故郷の春はいつも似ていて、でも同じ顔をしている年はひとつもなく、懐かしさが大人になったあなたを馳せた過去に戻そうとしても、どこかがかならず違っている。流れていく時間は、あの頃は良かった、なんてあまい郷愁を拒んで、むかしは、なんて逃げ道を許してはくれない。

 たとえば七年前の春を覚えているだろうか。中学生だった僕たちはよくふたりで、この道を歩いた。ふだん使っていた登下校の途中に、この並木道があったから、自然と近所に住む僕たちが並んで歩くこともあった。意識し合っていたと思うのは、僕のうぬぼれかもしれない。だけど、どうしようもなく自意識だけが肥大していく中学生の少年にそれ以外を考えろ、というのは無理がある。僕は意識していたからこそ、わざとあなたが登校する時間をずらしたのに、ばったり会うことが多かったからだ。あなたは偶然の振りをして、もしかしたら、と僕は勝手にそう思っていた。

 あなたの気持ちはどうであれ、僕の気持ちには気付いていたはずだ。

 私のこと、好きでしょ?

 冗談めかした口調であなたはそう言う。低い声がコンプレックスだ、とあなたは言っていたが、その静かですこし掠れた声は不思議と僕の耳に馴染んで、心地良かった。あれは中学を卒業する前日だったはずだ。その時もこの並木道で会って。懐かしいね。私のこと、好きでしょ。そう言ったあなたのほうが照れたような表情を浮かべていた。心配性のあなたのことだから、きっと僕の反応が不安で仕方なかったはずだ。

 あぁ、あと三島くんと瀬名くんと眉村くんも、私のこと好きだったのは間違いないね。私って、もてるから、

 なんて存在もしない架空のクラスメートをでっち上げながらほおを掻くあなたを見ながら、いまも聡いとも思わないけれど、当時の僕は感情の機微に特に疎くて、茶化されたと恥ずかしくなって、その場から逃げようとした。

 待って、と離れようとする僕を追い掛けて、あなたは僕の手をぎゅっと握ったね。汗ばんだ手のひらが重なりあう生ぬるい感触をいまも覚えている。お互い緊張していて、そのあとの言葉も続かないまま、手は別れて、僕はあなたからも離れた。

 あなたの戻りたい過去が、そんな頃かどうかなんて僕は知らないけれど、仮にそうだったとしても、もうその時期の風景に足を踏み入れることはできない。

 あなただけではない。僕もそうだ。

 じゃあ僕たちが十七の春を覚えているだろうか。僕は或る一日のことを、とてもよく覚えている。僕という存在がこの世界から完全に消滅しない限り、永遠に忘れることはできないはずだ。

 雨の強い日だった。

 いつもの桜の木の梢から離れて淡い薄桃色の花びらがぬれた路面に貼り付いて破れていたことを、あなたは知らなかっただろう。僕は知っていた。僕はずっと下ばかりを見ていたからだ。その頃のあなたには隣に寄り添う相手がいて、僕はふたりが恋人同士になった、と知ってからは、特に意識しながらあなたと距離を取るようになった。通う学校が違っていたことを幸いに、絶対にふたりの並ぶ姿は見ない、と決めていた。あなたのためではなく、僕自身が傷つきたくなかったに過ぎない。見てしまえばその瞬間、信じていたものが崩れてしまいそうな、そんな気がしたのだ。

 あの日、初めて見たあなたたちは、一本の傘の中で肩が触れるほど近付きあっていて、それはとても似合いだった。あなたをずっと見てきた僕が言うのだから、間違いはない。

 持っていた傘で顔を隠しながら、他人の振りをしてあなたとすれ違う僕に、あなたが気付いたかは分からない。気付かないでくれ、と祈りつつも、あなたの物語に僕が不在の寂しさはある。歩みを止めずに遠くへと離れていくあなたたちの背中の先で、僕が動けずに立ち止まってしまったことも、あなたは間違いなく知らなかっただろう。

 やっぱり、ほっとする反面、残念な気持ちもある。

 やけに車が多くて、僕の耳もとで聞こえる雑多な音がひどく不快だった。あの日から僕の時間は止まったままだ。

 これ以降のことで、僕が語るべき僕の話はほとんどない。それにこれは僕ではなく、本来あなたの物語だ。

 あなたにとっても僕にとっても久し振りの、あなたの家がそこに見える。だけど、あなたは横目でちらりと見ただけで通り過ぎてしまった。想像していた通り、あなたの目的はそこではなかったのだろう。知っていたけれど、僕はとても苦しい。

 あなたの歩みはまだ続いている。ふたつの意味で。

 少女、と呼ばれた時は終わって、あなたはいまを歩んでいかなければならない。その歩みを止めてもいいけれど、僕は絶対に薦めない。あなたはその世界から消えようとしているのだろう。あなたのその行動を僕は薦めない。変な正義感を振りかざしているわけではなくて、僕は知っているから、実体験として、先輩として、そう思うのだ。

 あなたがそこから飛び降りたとしても、あなたは世界から消えない。

 すくなくとも僕は世界から消えなかった。誰にも見えないけれど、いまも僕はこの世界に存在している。だから、やめたほうがいい。その世界とは同じ場所にあって、その世界とは違う、この場所にいる。ここは思いのほか、寂しい。

 僕は、ずっとあなたを見てきた。

 気持ち悪い、と思うだろう。思ってほしかった。いっそストーカーだと僕を罵って欲しいくらいだ。だってそれは僕を認識できている証拠になるから。

 幽霊ってのは、なんとも役に立たない存在だ。やめろ、とあなたの耳に言葉を届けることも、こっちには来るな、とあなたの手に触れることもできず、ただ見ているだけの存在になんの意味があるんだろう。あなたとすれ違ったあの日、生きている僕が最後にあなたとすれ違った、そうあの日だ。僕は交通事故に遭って、救急車が響かせるサイレンの音と僕の肉体を囲む人たちの悲鳴や怒号を、自分の身体を離れた場所からのんびりと眺めていた。

 本音を言えば、あなたのその行動の先に僕との再会が待っているかもしれない、とそんな気持ちがよぎらなかったわけじゃない。だけど保証なんてないし、僕よりもあなたを必要とするひとはいっぱいいるはずだ。

 覚悟を決めるように息を吐いたあなたの背後から抱くように腕を回して、

 僕のこと、好きだったでしょ、

 と、あなたの耳もとに囁く。思い留まってくれ、と願うような言葉が、あなたに届いたりはしない、と僕が誰よりも知っている。

 だけどほんのわずかな違和感に逸れた意識があなたの精一杯の覚悟を奪ったのかもしれない。あなたは座り込み、身体を震わせていた。やっぱりまだそっちにいたほうがいい。心残りの多いあなたが世界から消えようとしたところで、僕のようになるだけだ。そして次の苦しみの時間が続くだろう。僕はあなたの気持ちも分からないくせに、好き勝手な想いを抱いている。でも想うくらいは許してくれ。あなたは好き勝手にあなたの道を選べばいい。実際のところ、僕の力なんて微々たるものなんだから。今回はたまたま思い留まったみたいだけど、別の時だったら僕の想いは無視されたかもしれない。

 あなたの震えが止まる気配はまだない。

 たぶんこれで、大丈夫だ。大丈夫、と言っていいのかどうかは分からないし、僕の行動が、あなたのためになっているのかどうかも分からない。ただ、すくなくとも当面は、僕とは違う世界をあなたは歩んでいくはずだ。

 うん。じゃあ。ここからは僕の番だ。

 僕はあなたがずっと好き、だった。

 こんなに近くで執着するように一緒にいた理由は、それ以外にない。たかだか恋愛感情のあれやこれやが現世にしがみつく心残りなんて、なんか恥ずかしいし、嫌だけど、事実としてそうなのだから僕も認めるしかない。

 好き……、だった、

 と、その感情は受け入れて、だった、と過去の話にして、僕は先に進もうと思う。その先に何が待っているかなんて誰も知らないし、そもそも僕は誰かに何かを聞くこともできない。不安はあるけれど、別にそんな感情は生きていた頃だって、いつもあった。何も変わらない。

 あなたの姿がぼやけてくる。遠くに見えるしだれ桜もぼやけてきた。

 ぼやけていても、とても綺麗だ。

 最後に見る景色がすこしずつ消えていく。

(了)