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虚業と実業

 1987年10月、ニューヨーク株式市場の暴落に端を発した世界同時株安が起こった。暗黒の月曜日「ブラックマンデー」だ。背景にある世界経済、そして米国自身が抱える諸問題など要因はいくつも挙げられる。しかし今回の話題はブラックマンデーではない。同じ年に製作された映画「ウォール街」、その中のセリフについて考えてみたい。

 蛇足だが、映画製作は企画ありきで委員会が設立され、撮影、ポストプロダクション、P&A、配給・興行という流れが一般的である。映画「ウォール街」がどういう過程を通ったかは知らないが、ブラックマンデーより先に企画が成されていたと考えるのが普通だろう。虚業としての金融の危険性を示唆した映画「ウォール街」。その先のブラックマンデーの事実は運命の悪戯なのだろうか? ちなみに、投資銀行家ゲッコーを演じた俳優マイケル・ダグラスに憧れ模写する金融マンが後に増えたと聞いたことがあるが、ブラックマンデーを経てなお虚業に身を投じるところが人の凄さというか、怖い部分だと感じた。

 映画「ウォール街」は、二十年ほど前にレンタルして鑑賞した。儲けのためにインサイダー情報に手を出し崩壊の結末へ。演出など映画自体も素晴らしい出来だと思うが、それ以上にいつ観ても色褪せない内容に感嘆符が飛び出す。その映画の最後に「虚業ではなく実業が良い」のようなセリフがあったと記憶していたが、再度そのセリフの意味を考えたいと数年前に改めて観賞した際、不思議なことにそのようなセリフは見当たらなかった(記憶違いだったのか?)。


金融ビジネスは虚業であるか?

 インターネットで検索してみると、虚業とは「価値を生まない、堅実でない事業」のような意味として考えられているようだ。例えば、ねずみ講とか土地転がしとか。そこに見過ごせない文字があった…株式投資である。株式投資は本当に虚業なのだろうか?

 例えば麻雀、パチンコ、カジノ、宝くじのようなゼロサムゲームの世界では、いくら儲けてもそれは虚業だと言えよう。誰かのお金が他の人の懐に入るだけで、その世界の中で資金は動いているものの足してみて価値が増えていない(ゼロサム)からだ。世の中の株式投資の状況を俯瞰すると、自己の儲けのみを期待したものがほとんどのように見える。デイトレーダー含む短期投資家だけにとどまらず、長期で資産運用を実践している投資家も同様だ。

 当然ながら株式投資とは投資家だけでは成立しない。必ず企業という相手が必要となる。しかし投資家が意識しているのは、自らが出した資金とその利回りである。資産が増えるのであればどの企業に投資しようともお構いなしで、インデックス投資も、配当や優待期待の個別株投資も、結局は自己の儲けのためだけの活動なのだ。対して長期投資とは虚業ではなく実業であると確信する。単なる期間の長さをいう長期投資ではなく、企業を応援し社会を創造しうる長期投資は、だ。


実業たる長期投資を社会文化としたい

 長期投資とは10年後、20年後も世の中に必要とされ続ける企業に対し、誰もが逃げたくなるような厳しい相場環境の中で果敢に応援することだ。企業活動とは世の中、つまりそこに住む我々の生活と表裏一体の関係である。消費者なくして企業活動なし、また逆も然り。世の中が必要とする企業とは多くの消費者に支えられている企業のはずだ。

 成熟経済下において、消費者は選択する自由を持っている。仮に同じサービスを提供する企業であっても、環境配慮や社会貢献など消費者からの共感を得る企業が選ばれ、選ばれない企業は消えていくか改善努力をするしかない。結果的に世の中はより良い企業で溢れ、未来は豊かになっていく。

 豊かな世の中に貢献する企業だからこそ、消費者が企業業績に寄与し、株価にも反映される。そのような企業に投資をするということは、企業成長がリターンとして戻ってくるだけでなく、投資を通じて企業と共に付加価値を生み出すことに他ならない。つまりプラスサムの世界なのである。

 2015年に執筆したレポートを読み返し、上述の通り記載してしまった。あの頃と今、考え方は変わらない。そして世界は少しずつだがそういう意思が生まれつつある・・・実態はまだ伴っていないが。

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