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文責について

平日の毎朝、日経電子版を読んでいる。

電子版の特集の中で「朝刊一面を読もう」というものがある。毎朝の1面のトピックスの1つを取り上げて、若手の記者の方が解説をするという特集である。若手の記者さんは、僕と同年代の方が多い。とっつきにくいトピックスなんかを噛み砕いて解説してくれるので、大変重宝している。

若手とはいえ、文章のプロである。簡潔かつ分かりやすく解説を施してくれ「この記事をまとめた人」として、記者の方の実名と一言が書かれている。

日経と言えば、第一線のビジネスマンや経営者の方々も目を通す媒体だ。そんな媒体に、自分の書いた文章と文責として実名が載せられる。考えただけでもプレッシャーの大きい仕事である。それを僕とさして年齢が変わらない人達が、毎日行っている。凄いことだと思う。

この「文責」について、一考するにあたり、あるエピソードがある。

大学4年生の時。友達の卒論を一部代筆したことがある。僕の通ってた学部は法学部で、ロースクールや公務員試験を受ける人が大多数なので、卒論が必修単位ではなかった。所属ゼミによって、卒論があるゼミとないゼミがあり、僕の所属ゼミは卒論がなかった。(卒論がないはないで、一つの学問を収めた気がしないのだが。)

就活も一段落した後。就職先で必要な資格勉強くらいしかやる事がなかった僕は、ある中学時代の友人(大学は別)から相談を受け、卒論の一部を手伝うことになった。

その友人は教育学部で、小学生の教育に関するテーマで卒論を書こうと目論んでいた。どちらかと言うと怠惰な類の友人であった為、締切に追われている段階で手伝うことになった。

カフェに2人で集まり概要を聞いた上で、文献に目を通し、文章を作成する。全く馴染みのない教育学についてである。「なるほどなぁ」なんて思いながら、文献を読み進めていきつつ、自分のパートの文章を構築していった。おおよそ5、6時間くらいに渡る作業を数日繰り返し、完成に近づけていった。

時間をかけて、様々な文献に触れているうちに、教育学素人の僕も、思うところが出てくるようになる。初めは無難に字数を満たすことだけを考えていたが、より斬新で良いものを書きたいという欲が生まれてきた。

締切の佳境を迎えたある夜のミーティングのこと。その日は、友達の父親が営んでいる会社のオフィスに深夜に集まって、各々の文章の擦り合わせの作業をしていた。その中で、僭越ながら自分の意見をぶつけてみた。作業の受託者としてあるまじき行為であるが、委託者である友人は分かったような分からないような表情で僕の熱弁を聞いていた。

その内容は、これまでの流れを修正しなければならない結論に至る為、納期のリミットを鑑みて、結局それまでの流れに沿う形で進めることに落ち着いた。

結果、期限に間に合い、一部を僕が書き上げた文章で友人は卒論をパスする事ができた。「何とか間に合ったよ。本当にありがとう」というLINEを貰い、お礼の品も受け取って、僕も一定の満足感を得た。

その論文の文責は友人の名である。受託者たる僕は、一部自分の書いた文章でありながら、名前が載ることはない。(というか、載ってしまっては問題である)

佳境のミーティングの時に、恐れ多くも自分の 意見を宣う事ができたのは、きっと自分に文責がないことに依るところが大きかっただろう。  恐らく、自分自身の文責の文章であったら、こんな自分勝手な振舞いはできなかったと思う。

しかし、こう思うと、一昔前に話題になったいわゆる「ゴーストライター」の方々の気持ちが少し分かる気がする。

自分がいくら手を加えた楽曲や文章であっても、結局は権威ある人の作品として世に出る。   

勿論、発表者の権威や影響力を持って、自分の作品が世に広がっていくわけではあるが、文責を負っていない「名もなき製作者」たる自分に甘んじてしまうのも、なんか寂しい気がするのではなかろうか。

そんな事を実名も明かさず、なるべく特定をされないように注意しながら、この記事を執筆している僕は、一体何者なのだろう。


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