何かを続けるには、全体を愛する必要があるのか。
何かしら物事が続くときと、続かないときがある。
それを分けるのはおそらく愛情。全体を見る、見ていない全体をも見る。それが、愛情なのだろう。
どうもこんにちばんは、りょーさけです。
2日連続朝起きて謎の体調不良を感じてます。
いよいよ「お前痩せろ」という警告が身体から出ているのだろうか。最近はお昼ごはんも自炊にしておいしく健康に努めていたのですが…むむむ。
今日は先日に続いて、全体を理解するということについて。
息子について語るついでに保坂和志さんの言葉を引用して書いたのですが、これは物事の継続にも関わるかなあと思い再度書きたくなった次第です。
では、始めます。
※※※
先日、息子についてnoteを書きました。
で、その中でこんなことを引用して…
「人は芸術作品に没頭しなくてはならない。作品には独立した世界がある。そのプロセスは愛と呼ばれ、評価や比較とは対極の行為です。愛は比較できないもの独自性のあるものだけを大切にします。没頭するたびに喚び起こされるこの愛によってこそ作品の全体を把握できるのです。作品全体は愛以外の何物でもありません。それぞれの部分は理性によって把握できますが、全体を理解するには愛が不可欠なのです。」
保坂和志、『人生を感じる時間』258pから一部引用
で、以下のことを書きました。
彼のことを作品と呼ぶことが適切なのかはわからないけれど、こういう感覚を彼を見るたびに再認します。そしてそれは他のもの―まあ僕なら酒とか詩になると思うけれど―に向き合うときも同じなのだろうと思う。
りょーさけ記事より引用
彼というのは息子のことです。
息子を見てると精神的に満たされる。というのも息子を見るときはどうやら愛というものが湧いているかららしい。で、保坂さんの本文中のフルトヴェングラーの言葉によれば、それは僕が彼の表情や行為の全体を見てまるごと把握をしようとしてるかららしい。
そういう全体を見ようとするのが、愛だ。
で、その愛と物事を続けるということについて語るため、アイキャッチのお酒のお酒について書こうと思うのです。
これは菊正宗酒造という酒蔵のお酒で、樽の香りがついてます。つまり、木の香りですね。
熱燗にすると檜風呂の中で酸味に膨らみがあるプレーンヨーグルトを食べているような錯覚に陥ります。美味。
ちなみに一緒に出てきたのは、「クリアはまぐり」というお料理。名前の通り、澄んだ貝の風味と軽い塩気が素敵なお料理です。お皿がまた素材の世界観とマッチしてていいんだこれが。
合わせると淡い旨味に先述の木の香りが混ざり合いなんとも言えず旨い。また小さい器(青いやつ)に貝の煮汁が入っててこれと酒を合わせるのもまたたまらんのです…。出汁割り的な。
で、何が言いたいかってね。
僕この菊正宗のお酒大学時代に拒否して以来飲んでなかったんです(笑)
初めて飲んだときは、
「えっ、木じゃん木ぃ食ってるみたいじゃん!」
ってなりました(笑)
もちろん二口目は飲まなかった。
それ以来のご対面です。
あの時この酒の可能性を見限ったあたり、自分には物事の奥行きを感じるセンスも愛情もなかったんだなぁって今思ってます。
何かを見続けるには、育て続けるには、味わい続けるには愛がいるらしい。簡単に「これだめじゃん!」ってやってたら、ほとんどの物事は続かないんだぜいつかのりょーさけよ。
すなわち。
今その対象、例えば酒が自分を満足させてくれなくても、「いや!でもあんなところが素晴らしいかもしれない」と思ってお燗をつけてみるとか!
ライムを搾ってみるとか!
氷を浮かべてみるとか!
ともかく自分の気持がトライ・アンド・トライ・アンド・トライ・アンド・トライ!エラーなどチェックポイントに過ぎない!とにかくトライ!な方に向けるように、その対象の全体をみる。
目に見える全体を全部見てしまったと思ったら、目に見えないような隠された全体を予感してそれも見る!
これまた酒だったら、その酒だけで考えずに他の酒と混ぜてみるとか。お菓子の材料にしてみるとか。
ともかく、可能性をいつまでも感じる。感じられるように全体をみる。そこに現前していないものを感じる。
また眺め続ける。
そういうのが必要なのだろうな。
なにかに飽きずにずっと取り組むためには。
そんな風に、思います…。
↑お酒を頂いた器ととっくりです。これまた素敵。
※※※
ひょんなことからnoteの「#酒場 まとめマガジン」の共同編集者に誘われました!
いやあ本当に紹介してくれたハネサエ.さんには頭が下がります…。酒好きアピールしておいてよかった。
ってことで、自分の記事を書くだけでなくnoteの酒関係の記事を見つける旅にも出ますヨ!
乞うご期待!
それでは、また。
酒と2人のこども達に関心があります。酒文化に貢献するため、もしくはよりよい子育てのために使わせて頂きます。