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近い距離のパスをミスる奴は、一流にはなれないんだよ


丸2日間、大人2体がシングルベッドで夜を越したのだから、睡眠時間と反比例するみたいに体が疲れるのも無理はない。

22時にはもう眠りに落ちていたのだが、初夏のじめっとした空気がふとももにまとわりつく心地悪さに目を覚ました。

空調のリモコンを裸眼で探すも見つからず、扇風機を5時間にタイマーセットしてもう一度布団に入ると10秒もしないうちにまた夢の中だった。


今日は掃除にほぼ1日を使った。

脱いだら脱ぎっぱなしの代表みたいな人間のくせに、3か月に1回くらいは何もかもピカピカにしないと気が済まないくらい掃除に熱中することがある。


そんな時は毎回と言っていいくらい、

もう2度と使わないであろう勉強机の右上の引き出しから手紙を探し出しては、小1時間ほど思い出にのめりこんでしまう。


いわゆる「社会人生活」も2年目に入ったので、今の気持ちを忘れないためにnoteに綴っておこうと思う。


昨今は「人生100年時代」とかいって、自分自身のスキルを上げないと今後ヤバイよ?みたいな風潮が強い、そりゃもう苦しい苦しい時代なのだけど、

それに変に同調しては、「何か」しないと、自分が無になってしまう、などという悪い意味での幻想を頻繁に抱く。


今の仕事は真剣に頑張りたいし、他の人をとやかく言うつもりもないはずなのに、強迫観念「このままじゃいけないおばけ」がどうも注意力を散漫にさせる。

目の前にあるやるべきこと、に最高のパフォーマンスで望めない状態が最近続いていた。諸々の意味を込めて、2年目のジンクスでくくってみよう。


話は少し戻るが、過去の手紙を見返していると、その時自分が何に情熱を傾けていたのかが分かった。他人が書いてくれたモノだからこそ、客観的に自分の姿が見えた。ある時はアメフトに、ゴルフに、ある時は英語の勉強に、ある時は留学先の授業に、ある時は旅に。


そしてそこには、「誰かが時間をかけて、僕を想って、手紙を書いてくれた事実」があった。




「何か」をしようとしているんだけど、

その「何か」が何なのか、分からない。


「何か」をしようとしているんだけど、

「その先に何があるか」がわからない。


「何か」をしようとしているんだけど、

「誰が」求めているかがわからない。



それでも手紙たちは、「あなたを想ってここにいるんだよ」

と語りかけてくれる。





目の前のモノ・コトに一生懸命向き合う大切さを優しく説かれているような気がして、何でか少し落ち着いた。


また明日からも頑張ろう。



1年後は何を想ってるかな。

日本にいなかったりして。

(なんでか現実になってそうで笑ってしまう)





おわり






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