「ラスアスII」プレイヤーがキャラとシンクロするストーリーテリング
これまでnoteは読むのが専門でしたが、初めて投稿します。SaRと申します。
6/19(金)に発売された「The Last of Us Part II」があまりにも素晴らしく、インタビューや他の人のレビューを目にする前に、一度自分自身の感想をしたためておこうと思いました。クリアから一晩明け、サントラを聴きながら書いています。
はじめに
本作は正に「全世界が待ち望んだ」と言えるタイトルです。同じNaughty Dogが制作した「アンチャーテッド」シリーズや、前作が高く評価された「ゴッド・オブ・ウォー」など、多数の人気シリーズを抱えるSIEタイトルで最速の世界累計実売400万本を発売から3日で達成しました。発売日に日付が変わった深夜からTwitterで「ラスアス」がトレンド入りしていた日本でも、かなり売れています。
かく言う僕も、発売を心待ちにしていた一人です。
2013年、発売日に購入し、吹替版と字幕版で両方プレイし、何周もしたのを覚えています。世界的な熱狂の中で、当初ニール・ドラックマン監督は、続編にかなり慎重な姿勢を見せていました。あの完璧なエンディングの後では、続編は作らないという結論だったとしても僕は納得したと思います。しかし、世界中の注目を集めて、2016年に続編が正式発表されたのです!
※下記に発売までの流れがざっくり分かる記事を貼っておくので、気になる方はどうぞ。個人的に大好きなゲームメディア、「doope!」さんの記事です。
PS4でのリマスター版も購入し、知人への布教もしていた僕ですが、今回改めて復習として久々にプレイし、それでもエンディングでは号泣しました。そして、続編の正式発表から3年半、前作発売からは7年の時を経て、新型コロナウィルスの世界的影響による発売延期をしながらも、遂にPart IIが発売されました!
それではここからは、本題に入っていきます。序盤ではゲームのガワの話をメインにしますが、微ネタバレもNGの方は、避けていただくことをお勧めします。感想という性質上、後半ではストーリーの根幹とエンディングに触れる重大なネタバレに触れていきますが、その前にはアラートの文とスペースを入れます。
傑作アクションゲームの正当進化①「新たな敵の必然性」
まず本作をプレイしてみて終始感じていたことは、本作が、1作目が売れたから・評価されたからという理由以上に、制作する意味をクリエイターが見出して作ったことが伝わる作品だったということです。冒頭で触れた記事内でもドラックマン監督が言及しているように、
本当に伝える価値があって、これまでの繰り返しではないストーリーをみんなに語ることが出来るか?
これが人気作の続編を作る上で全てだと思います。前作の内容をダラダラ引き伸ばした続編では意味がないのです(劇中で某恐竜映画の続編をジョエルがdisるメタ的なシーンがありますが、僕はあれはあれで好きですw)。
Part IIは、前作のPS3での発売から7年経ち、PS5の発売まで残り半年ほどという過渡期のタイミングで発売となりました。グラフィックは言わずもがな、正に新規要素とストーリーテリングがリンクした正当進化だったと思います。
まずアクションゲームとしての進化は、回避とほふくが加わったことで、より多人数と渡り合うことが可能になりました。前作では、多数の敵に囲まれてしまうとどうしてもジリ貧になってしまうこともありましたが。ドラックマン監督がRTしていた、この短いプレイ動画がめちゃくちゃ流れるように戦局に対応していたので分かりやすいかと思います。
また、続編ということで、ファンが期待するのはこれまでより手強い相手。新アクションはもちろんですが、前作の舞台から5年が経ち、エリーは成長したことで力がつき、動きは機敏に。飛び出しナイフを携帯しているため、サイレイントキルも容易です。前作のようなハンターたちでは最早ほとんど歯が立たないでしょう。
ですが、今回相手になる生存者たちは、一般人相手の略奪行為を繰り返しているハンターではなく、常に敵対する武装組織との抗争状態にあるWLFとセラファイト。圧倒的な頭数もそうですが、士気も練度も段違いです。前作ではHARD以上の難易度でも走れば正面から敵に接近できましたが、今回はNORMALでも蜂の巣にされるのは、ゲームバランス調整という面以外にも、それが理由だと思います。
また、シャンブラーやラットキングという新種の感染者の登場も、パンデミックから25年の時が経った中では自然に思えます。シャンブラーは、ブローターになる過程での突然変異ということでしたし、ラットキングは、病院の狭い閉鎖空間に多数の感染者が押し込められ、25年の歳月で融合してしまったもの。「この病院から全てが始まったのよ。ここに最初の感染者が運び込まれた」という、ノラが語る設定はかなりアガりましたw
これらの、「続編だから単純により強い敵を登場させた」というわけではない、「ストーリーと結びついた手強い新たな敵」の登場は、アクションゲームとしてのあるべき進化の姿だと思います。個人的には、セラファイトの口笛でのコミュニケーションが、オリジナリティと得体の知れない恐ろしさがあって、初登場シーンでとてもゾクゾクしました。
傑作アクションゲームの正当進化②「多様なロケーションと探索の楽しさ」
前作からスケールアップし、クリアまでのプレイ時間は10時間ほど増えるであろうと言われていた本作。それはただマップが広くなったということに止まりません。これもストーリーテリングとして、効果的な役割を果たしていました。前作の舞台のどことも異なる、ビル群の廃墟と生茂った植物が渾然一体となったシアトルの街並み、そして終盤のサンタバーバラの熱気すら感じるような作り込み。
Part IIはプレイしていて、とにかく多様なロケーションの探索が楽しさを感じるシーンが多くありました。
市街地にしても、オフィスから銀行、カフェ、化粧品店、水族館、道路跡の川と、正に街一つをゲームにした多様さです。これは「アンチャーテッド4」でも大成功を収めたNaughty Dog、そしてドラックマン監督が積み上げてきたものを活かした部分も大きいと思います。
こうしたマップを探索する上で肝になったのが、先ほども触れた新アクション、そしてロープの活用です(余談ですが、ロープの自然な挙動も海外では評価されているようです)。
前作ではマップがリニアでPart IIほどは高低差もなかったため、隠されたロケーションに行く手段も、辺りを見回して段差からの入り口やナイフを使って入るドアを見つけてしまえば入ることが出来ました。そのため、重要なのは辺りを小まめに見回しておくことと、普段からのナイフのやりくり(HARD以上の難易度でこれに泣かされた人は多いはず…)。
ですが、今回は新アクションに加え、マップも箱庭に近い作りになったため、飛躍的に探索の幅が広がりました。隠されたロケーションへ入るにも、高所にあるガラスにものを投げて割ってから入ったり、上手く登れるロープの引っ掛け方を模索したりと多種多様。つまり、見つけるだけではなく、入り方を考えるという1ステップが追加されたことで、それが上手くいった時の喜びも追加されたのです。
シアトルのダウンタウン探索は、本作の中でも特に好きでした。スタッフはシアトルを舞台にするにあたって、建築や植生もかなり研究しており、下記の比較映像でゲームと現実を見比べると、その再現度の高さに度肝を抜かれます。
色々なスポットを巡りながら、エリーがヒントや探索し終えた目印を逐一マップに更新してくれるため、分かりやすいのも大きなポイントだったと思います。その中でWLFの成り立ちや、ディーナの宗教観、前向きな考え方などにも触れ、ストーリーと探索がしっかり結びついたものでした。ただマップを薄く引き伸ばしただけの探索ではありませんでした。
ゲーム内で確かに息付いている人々
今回、プレイしていて強く感じたことの一つは、クリエイティブやエンタメの世界では最早使い古されたであろう、「神は細部に宿る」という言葉の本当の意味です。
前項で触れたロケーションの繋がりとして、人々が暮らしている居住区にしても、例えば前作では外観しか見えていなかったジャクソン・シティは、今回はエリーたちが暮らしている様子が描かれ、前作でのボストンとは段違いの文化的な発展ぶりに度肝を抜かれました。荒廃してしまった世界で略奪に走るのも人間の一面であると同時に、文化を取り戻そうとするのもまた、人間の一面として自然です。
一方、シアトルは資源が豊富なゆえに、WLFとセラファイトという、組織が対立しています。WLFの暮らす、正に軍隊の基地然としたスタジアムには、アビーのあの鋼の肉体を作り上げるのに役立ったであろうジムもあり、セラファイトは木造建築の村を形成しています。これもまた、信じるものの違いから、暮らしぶりが全く異なることが表されています。
Part IIでは、敵のモブキャラたち、そしてWLFは連れている犬それぞれにも全て名前があります。仲間が殺されれば名前を呼んで悲しみ、犬は死んだ飼い主の元へ駆け寄り、悲しそうな鳴き声をあげます。正に、人々がそこで息付いているのです。
プレイヤーとして、冷酷な軍隊式のWLF、そしてイカれたカルト集団だと思っていたセラファイトが、ストーリーが進むにつれて見方が変わります。彼らが、それぞれの人生のある一人の人間だったということを、自然と認識していきます。それは、エリーも同じです。エリーとプレイヤーがシンクロします。ここに、スタッフが細部にこだわった意味があります。マニアにしか伝わらない、ただの自己満足のこだわりではありません。
※ここからは更に根幹のストーリーにも触れていきます。劇中の重要なネタバレになるため、本編クリア後にご覧になることを推奨します。
********下記重要ネタバレあり********
********下記重要ネタバレあり********
エリーとプレイヤーを繋がりを強固にするディーナの重要性
さて、ここからはもう少しストーリーについて触れていきます。
Part IIは、エリーの復讐の旅。それでも特にシアトルのダウンタウンを楽しいプレイ体験たらしめたのは、ディーナの存在が大きいです。これはSIEとNaughty Dogの秘密主義に万歳!と言いたいポイントですが、「プロモーションでは」ジョエルの死も、アビーの存在も伏せられていました。
むしろディーナが死に、その復讐にエリーが固執したことで、ジョエルとも決別してしまう、というストーリーのようにミスリードされていました。そのため、プレイするまでは、エリーの一人旅として、もっと終始暗い展開を予想していました。
ディーナはただの旅の同行者・恋人というだけではありません。過酷な旅路と分かっていても、いつも明るく振舞う彼女が精神的支柱となっていきます。ディーナが居なければ、この旅がどんなに辛いものになっていたか…。「ジョエルの復讐を果たすこと」から更に、「ディーナを大切に想うこと」。エリーの目的と原動力の両方に、プレイヤーが共感し、シンクロするポイントだったと思います。
少し話が逸れますが、ダウンタウン探索では、a-haの「Take On Me」をエリーがギターで演奏する一幕が一番好きでした。最近だと映画『ラ・ラ・ランド』でも使われていましたね。この曲は、終盤の農場での束の間の幸せなひと時の中でも、ディーナが洗い物をしながら鼻歌で歌っています。そういう繋がり、大好きです。そのシーンを見逃した方、ぜひダウンタウンを探索してみて下さい。
「正義と悪」とは不確かな基準
今回、最後までプレイした方は、正義と悪について、どのように感じたでしょうか?このテーマについて描いた作品は数多くあり、Part IIを描くにあたり、ドラックマン監督をはじめスタッフは、「正義」や「復讐」について数々の本や映画、ニュースやインタビューに至るまで研究しています。
そうした作品の中で、特に「正義」を扱った作品で名作と言われるものは、そこに明確な基準など存在しないという結論に至っていると、僕は思っています。『キャプテン・アメリカ/シビル・ウォー』でトニーとキャップがぶつかるのも、それぞれに信じる正義があるからであって、どちらが完全に正しいなんてことはないのです。
現実的な目線になればなるほど、勧善懲悪なんてものはなく、正義と悪は、それをジャッジする人の視点によって違う、不確かな基準です。それはPart IIでも描かれています。
序盤では、アビーがプレイアブルキャラとして登場することにまず戸惑い、そしてあまつさえそのキャラがジョエルを殺す…あまりの出来事を信じられず、ジョエルのお墓参りのシーンの後、少しコントローラーを置きました。
ですが、序盤のプレイアブルキャラとして、前作の主人公だったジョエルではなく、アビーが選ばれたことに、必ず意味があると思いました。
前作でもジョエルは、殺したハンターの仲間にも、デビッドたちにも、そしてファイアフライのメンバーにも「イカれてる」と罵られます。自分自身とエリーを守るという視点から見ればジョエルが正義のように見えますが、逆に殺されたコミュニティの仲間から見れば、立ちはだかる人間を皆殺しにしたジョエルは、確かにイカれてると感じるでしょう。
その事実ともたらした結果に、今回はジョエルもエリーも向き合うことになります。アビーがプレイアブルキャラクターとして選ばれたのには、そこに理由があります。まさか終盤で殺してしまった医者の娘がもう一人の主人公になるなんて、前作の直後は誰が予想したでしょうか?
最初は、アビーはジョエルを殺したゴリラ女(「攻殻」で素子がよく言われているアレ)としか思っていませんでした。前作を経た後で、彼女の復讐を受け入れるのはなかなか難しいでしょう。正直、1周クリアした今も、受け入れきれてはいません。ですが、ストーリーを進めていくと、彼女の鍛え上げた肉体が、繊細な心を守るための鎧だったということに気付きます。
上の項でも触れたように、Part IIでは、他のエリーやジョエルの敵も、確かに息付いた人間だと感じさせるストーリーになっています。WLFもセラファイトも、ジャクソンの人々と本質的には変わりません。
WLFで暮らす人間は、ジャクソンと同様の環境があっても、彼らのように平和的な暮らしがあるという選択肢をそもそも思い浮かべません。それは争いが日常になっているからです。セラファイトも、預言者が死に、教義を拡大解釈し始めてからおかしくなったと、レブが語っていました。
アビーのパートで、トミーと戦うシーンがあります。その時、トミーをどう感じたでしょうか?ジャクソンでは頼れる年長者で、周りにも優しく接する男が、僕は正直とても恐ろしい敵に感じました。エリーに狙撃を教えるシーンと重なり、それが自分に向けられた途端、悪魔のようなスナイピングになりました。
EXTRAのモデルギャラリーでトミーを見ると、いかにライフルを愛用しているか、そのカービングやカスタム具合も分かります。そういった細部にも、神が宿っています(PS4 Shareの画像より)。
冒頭では仇の一人だったマニーも、アビーにとってはアニメが好きで口が達者な気のいいやつです。トミーに頭を撃ち抜かれたシーン、どう感じたでしょうか?
また、エリーと闘うシーンもありました。本来、主人公キャラと戦えるのは激アツな展開です。例えば「龍が如く4」でも、冴島パートでの桐生との戦闘は、心躍るものでした。しかし、アビーとしてエリーと向き合った時、彼女は非常に手強い相手でした。正面にまともに向きあえば即死コースで、安易な攻撃は回避される。ここまで多勢に無勢の逆境を切り抜けてきた、悲痛なまでの強さを感じました。
各々のキャラクターたちが信じる正義のために、命を燃やして戦う。そこにドラマがあったと思います。みんなが正しさを自分に言い聞かせ、心の中で悲痛な叫びを上げて戦っていく姿を、見届けねばならないと、コントローラーを握っていました。
誰かのことを好きな気持ちと嫌いな気持ちは同じ小瓶に入っていて混ざり合って、別々にはできない。善と悪も同じ。一つの人の中に一緒に住んでいる。
漫画「レッド・ベルベット」1巻の、多田由美先生のあとがきでの言葉です。本作で描かれている人間模様を表現するのに、これ以上ぴったりな言葉はないと思い、引用させて頂きました(余談ですが、本作もプレイされているようです)。
最後に
終盤、農場で束の間の幸せを噛み締めていたエリーの元にトミーが来た時、僕はあまりに痛々しくて見ていられませんでした。「もういいんじゃないか」と思わずにいられませんでした。前作では当初はジョエルに協力することも拒んでいたトミー。時を経て、兄とのわだかまりも消え、エリーにとっても、ジョエルと気まずい時に間を取り持ってくれる、優しい叔父のような存在でした。
しかし、農場に現れたトミーは、前作でのカート・コバーンのようなルックスは見る影もなく、片目は垂れ、脚も引きずり、鷲鼻だけが強調されていました。前作で、妄執に取り憑かれ、エリーを追い回したデビッドにも似ていたように感じました。
結局エリーも最後の旅に出て、ディーナとJJとの幸せも、ジェシーも、そしてギターを弾くための指も失いました。それでも今回の旅は、エリーが、そしてプレイヤーがジョエルとお別れするために必要な旅路でした。あのまま平穏な生活の中に身を置いて、ジョエルの死をただ忘れていくことは出来ませんでした。
ジョエルの言葉を借りれば、「神様がもう一度チャンスをくれたとしても、きっと同じことをする」、僕もそう思います。それは前作でも、Part IIでも同じです。
キャラクターとシンクロするための、ストーリーテリング。本作は、ゲームとしての進化、それに伴う細部までのあくなきこだわり、全てがストーリーを感じるために捧げられた、間違いなくゲーム史、ひいてはエンタメ史に残る大傑作でした。
ここまでの内容を知った上で、もう一度前作からプレイしようと思います。どちらも辛い旅路ですが、唯一無二の作品です。Part IIIも、「本当に伝える価値があって、これまでの繰り返しではないストーリーをみんなに語ることが出来るか?」、これが見出せれば作るという検討段階にあるようです。
いずれにせよ、ゲームでも、そしてこれから控えているドラマでも、僕はジョエルとエリーの旅路と、向き合い続けます。
超長文の感想、ここまで読んでいただき、ありがとうございました!
※画像引用元
https://twitter.com/PlayStation_jp
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