酔狂、職人、井戸の底、猫
恵比寿さまが越して来るというので麻布からわざわざ出向いたのに、あらわれたのは炎を巻きタテガミの長い変な動物だった。XX屋敷の瓦屋根に立ってこちらを窺っている。黒い目玉が茫茫しいが、何という動物なのかわからないから怖くて仕方が無い。ぬえというものがいたらしいがこんな動物だったのに違いない。頼光なら射落とすところだろうが、私が手に持っているのは竹竿だった。竹竿の先にはトリモチが付いているので上手くすれば捕らえることができるかもしれない。思いきり伸びをして動物めがけて竿を遣ると、我が胴はぐんぐん伸びて具合良く動物のツノをとらえた。
ぎひーん
動物は長い体毛を振り乱してのがれようとする。びっという音がしてトリモチが外れた。シマッタと思ったが逃げるでもなく毛の抜けた頭を振っている。トリモチを見ると、「キ」という文字がひっついている。今度は後頭部めがけ竿を突き出す。
ぎひーん
黄金の体が月光に映えて美しい。今や首を捕らえた私は、こちらに引き寄せようとすると、マタマタびっという音がして取れてしまった。今度の文字は何だろうと見ると、「リ」だった。
動物はにたりと笑ってこちらを見ている。挙がった尾のなかに「ン」の文字が見える。
急に興味が失せた私は丁度縁先に現れた殿様の、ちょん髷めがけて竿を突き出す。「曲者」という音がした。誰かが口笛を吹いたのでひゅっと胴をちぢめると今度は足が百本に増えた。ぞろぞろと音をたてて逃げだした。何か地を這うような気がしたが、追っ手はもうすぐそこまで迫っているので、そのまま必死で走りつづける。赤い欄干がみえて橋と知れた。そのまま上へ這いのぼっていくと、月の銀光の中に酷い形相のよろい武者が浮かび上がった。トウタだ、しまった。と思ったがもう遅い。
(1999/7記)
三日月の晩、木彫り職人に会いに行く。
齢百五十という。
茫洋と木を彫る身姿は、
骨に皮で生気が無い。
何故そこまで。
命を掛けるのですか
。
掛けてるんじゃない
掛かっちまうのさ
。
夜空に向かって指をさす。
三日月の先に職人が引っ掛かり、もがいている。
ああ、
掛かっている。
ことり、と音がし横を見る。
屍手から転げた木屑には、
何の意匠も読み取れない。
2000/9/3(日)
硝子が鳴っている。
門口に立ったのは鼠の背広を着た男だった。せわしなく肩を揺らし光る額を拭いながら、無理な笑みを浮かべて言う。
「こちらに、×××がお邪魔して居りませんでしょうか」
体格に似合わぬ甲高い声に驚き思わずはいと言ってしまうが、×××が訪ねて来たかどうかは定かではない。茶の間に正座して俯く×××の姿が思い浮かぶ。×××は菓子入れの中の海苔煎餅を見詰めていた。好物だった。型に取ったように静止した笑みを浮かべている。ふと顎を上げると革靴が、互い違いに並んでいた。
「×××どこだ?」
背の方から引き攣った声がきこえる。振り向くでもなく唯玄関の前に立ち放す。
そう、どこだ。ふと顔の輪郭が思い出される。閉じているでもなく開いているのでもない眼からは何の感情も読み取れない。仮にいたとして何をしにきたわけでもないだろうに、何故あの男は傍若に振る舞うのだ。拳を握ってみるが腹が立つ程でもない。
顔をあげると灰色の背中が出て行くところだった。袖口が撚れていた。何も言わず埃を巻き上げ乍らバシと閉めていった。ガタガタ揺れる擦硝子を見詰めながら、仄暗い土間に残る熱気の薄れゆくさまを感じていた。残された靴を磨いていると、
ぼーん、ぼーん。
腰を曲げ、立ち上がる。ぺたぺた音をたてて茶の間にむかう。霞が流れるような廊下の突き当たりから、茶の間を通して中庭迄が見通せる。溜まった洗濯物を避けながら戸を潜ると狭い畳の上には粉や片屑の様なものが散乱している。卓袱台の菓子入れに目が止まり覗き込む。井戸の底の様な気がした。足裏にへばり付くかけらを畳目に擦り付け乍ら半開きの硝子戸に目が行く。荒んだ風が吹き込んで戸を閉めようとすると鶺鴒が悲しげに鳴いた。僅かな坪庭から見上げる自分のぐるりを囲んだ家々の壁を見るたびに憂鬱になる。頭上を一面に覆う雲垂れが今しも落ちてきそうなああ、井戸の底だ。
さあ、という音がしてがちゃりと鍵を閉め、振り向くと暗い部屋に不釣り合いな大鏡がある。左隅の小さな亀裂を見て私はかつてここにいたひとのことを思い出す。蒼い和服を纏いまるでお釈迦さまのようにほんのりと笑みを浮かべて、この座布団に座っていた。枯れ枝のような両の足を曲げていた。ふと四十雀が鳴く声を聴いて、
あら、珍しいわ
と言った。もっと良く聞こえるように戸を開くと突拍子もないがらりに驚いて、奴は飛び去んでしまった。庭にただひとつ実のいっこうに実らない柿の木があった。妻はただひとこと、
笑ってるわ
と言った。ほら、震える指の先に私は柿の一葉が揺れる様を見た、それが最後であった。
・・・笑ってる。
いつのことだったか思い出せない。思い出せない。×××がだれであったのか、もう思い出せない。思い出せない。
鏡がぼんやりと照り返す私の上唇には海苔がへばりついている。鼠の背広の袖は矢張り撚れている。
・・・そのままひとしきり泣いた。
(1993/12記)
なあご、
顔を向けると、猫が居た。人の眼をして居る。
顎のあたりを掻いてやると、猫のように喉を鳴らした。
どこから入ったんだろう。
からん、と音がして、庭木戸が揺れる。女が居た。
憮然とした様子で、こちらを見詰める。猫は益々身を摺り寄せてきて、膝にあげてやると、そのまま丸くなり、白い息をしはじめた。
顔を向けると、縁先迄女は来ていて、片手を突いて眼差しを向ける。
何、それ
知らん、勝手に入ってきたのだ
何で膝に乗っているの女はもう片方の手をぐっと伸ばした。思ったより距離は無かった。
鷲掴みにされた猫は、声も立てずにぶらさがった。
捨ててくるわ
女は猫の眼をして居た。黄昏の空気が少しばかり濁った。
私は抗う事も無く、したい様にすれば良い、と言った。
からん、
女の姿が消えると、庭の緑を強く感じる。遠くで何か売る声がする。
庭木の影が長くなって、木戸の辺りを曇らせている。
なあご、
顔を向けると、猫が居た。
人の眼をして居る。
もう顎は掻くまい、と目を背けると、もう膝に登っていて、白い寝息をたて始めた。
何、それ
女が居るのはわかっている。目を向けずとも、手は伸びてきて、猫は消える。わかっている。女は猫の眼をして居る。
ごつん、と音がした。
畳が目に迫った。止めど無く流れる血潮が、目玉を黒く染めてゆく。
左目を僅かに上げると、太い足首が在って、その上にあの女が居る。
左手の刃物が、油気を帯びて輝く。
妻の後ろには若い女が居て、呆けた様な顔をしている。裸だ。鈍い痛みが襲ってきて、遠く蝉の声を聞きながら、背を震わせる。沫のはぜる様な音が口唇から漏れ出て、やがて意識は痺れる様に、消えて行く。
消えて行く。
ぱちりと音がして、気が付くと眠り込んでいた。頭の後ろに柔らかい布の感触が在って、湿った体温が伝わって来る。額に手を遣ると、潰れた蚊が僅かな血を撒いていた。優しげな眼差しを見上げると、口元が僅かに上がるのが分かった。
良く眠って居たわ。
・・・良く眠った。
もう夕飯の支度をしないと。
・・・うん、俺が作る。
そそくさと立ち上がると、背を丸めて庭先へ出た。振り向くと薄暗い部屋に座る妻が見えた。紺色の絣が黒い畳に溶け込んで、白い顔だけがぽっと浮かんで居る。つと背に走るものがあった。
ああ、猫の眼だ。
了(2000/6)
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