Ep.012: ユーレイと10万ドル-ニューヨークの追憶
オガタは、薄暗い半地下のベッドルームで目を覚ました。上部に設置された正方形の小さな日窓から陽の光が漏れている。38歳。ニューヨークで生活しはじめて15年になる。
日本の大学を卒業し、小さな商社に入社、ジャズ音楽が好きでニューヨークという街には常に憧れがあった。夢を現実にするためにコツコツとお金を溜めて、23歳の時に会社を辞め、ニューヨークの語学学校に入学した。
この街の空気とJAZZを目一杯楽しんで、2年ほどしたら日本に帰国する予定だった。
学校はMacy'sのあるマンハッタンの34丁目の近くのビル4階。 学校には様々な人間がいて、貯金してきた自分と違い、大部分の生徒は裕福そうだった。放課後には同じ出身国どうしで固まり、連れだって遊びに出かけているようだ。
当初の私は英語上達のために、出来るだけ日本人とは群れないように気をつけていたが、2ヶ月もすると、週に何度かは学校の日本人達と、イーストビレッジの日本風居酒屋で飲むようになった。
居酒屋には様々な人間が働いていた。アーティスト、ダンサー、ヘアメイク、その肩書きの全てに(志望)というカッコがついた。昼間は語学学校に通い、夜はバイト、隙間時間に自分の作品作りをこなしていて、忙しそうだが、楽しそうだった。
あっという間に2年が過ぎた。
5年間の学生ビザの期限はあと3年。 まだ同じ語学学校に通っているが、私は午後だけのクラスをとっている。イーストビレッジの居酒屋でバイトを始めた。
キッチンには働き者のメキシコ人が、フロントには気の知れた日本人が働いている。留学生は収入があってはいけない。 給料は全て現金で、税金は払っていないので、週5で働けば2千ドルくらいの収入になった。
生活するのには何の問題もない。
休みの日にはジャズバー巡り、ウエストビレッジのZincというジャズ・バーがお気に入り。 ボストンに友人達と小旅行に行ったこともある。 バイト先の居酒屋で知り合った日本人ダンサー(志望)の恋人もできた。
渡米してから5年、学生ビザの有効期限がきれた。
私は帰国するか迷った。
「ジャズ・バーを開店するからバーテンダーとして入ってくれないか?」と友人に誘われた。ビザの期限切れのことが少し気にかかったが、承諾した。
夢の一つであったニューヨークのジャズ・バーで働けることが嬉しかったし、ダメでもともと、上手くいかなければ、日本に帰ればいい。
日頃通い詰めたジャズバーでの繋がりのおかげで、良いアーティストを私達のバーで演奏させることができたし、昔のバイト仲間も友人達をよく引きつれてやってきた。何人か日本人のバイトを雇い、売り上げは好調だった。
コカインに手を出したのは、この頃。 大麻は居酒屋で働きはじめた頃から、日本人の売人集団から買って、時々吸っていたが、コカインはジャズ・バーで知り合ったスペイン系のホルヘから買った。
最初はバーの忙しさがピークに達した深夜にトイレで隠れて吸引していた。眠気は吹っ飛び、朝9時までジャズアーティスト達と騒いだ。
次第に週に一度の休日もコカイン漬けとなった。その頃の恋人と一緒に吸引し、1日中セックスをする。白い粉を歯茎に擦り付け、獣のような目と唸り声をあげる彼女に馬乗りになられるのが好きだった。
学生ビザの期限から、さらに5年が過ぎた。
ジャズバーのオーナーが「日本に帰国したい。このバーを引き継かないか?」と訊いてきた。
家賃を払うバーの大家とは、もはや長い付き合いだし、経営も上手くいっていた。 学生ビザで来ているバイトで何人か雇い、現金商売で税金もロクに納めていないのだから当然か。 二つ返事で了承した。
自分の城を持ったようでいい気分だった。
その頃には、売人のホルヘと手を組んで、騒ぎ足りない客の中から目星をつけて、彼に紹介し、仲介料を貰った。
住んでいるアパートも古くから住んでいた日本人は皆んな帰国してしまい、順ぐりに私は一番小さな部屋から一番大きな部屋へと移った。日本人留学生はそれぞれの夢を胸に、毎年山のようにニューヨークへとやってくる。 私は空いた部屋を割り高の家賃を提示して、彼らに貸し出し、自分の家賃分は実質タダとなった。
日頃の楽しみといえば、ジャズとコカイン、それ以外は要らない。腹が減らない。メシは食わなくてもいいくらいだ。
使う金より入ってくる金の方がはるかに多かった。部屋のベッドの下には現金が溢れていた。
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