固まる大人、退屈な成人式
文句を垂れさせてもらう。
文句を垂れるということすら、成人した私にはふさわしくないことなのだろうか。
しかし大人は何かと文句を垂れる生き物だと幼い頃から私は認識してきたし、実際にいま世に跋扈している大人に目を向けてみても、どうやら小難しい説明や回りくどい推論は不要のようだ。
思うに、大人になるということは凝り固まっていくということである。
自身の経験が算術級数的に膨れあがるとともに、それを咀嚼し、そこに解釈が付与されることで個人的思想が幾何級数的に膨れ上がっていく。
(もっとも、咀嚼するための歯が抜け落ちてしまっている人間もよくいるが笑)
こうなってはちょっとやそっとの刺激では動かぬ氷山だ。「氷鬼(こおりおに)」という子供の遊びがあるが、あれと同じである。固まってしまった人間はその場から動くことができず、誰かの助けを待つのみ。
つまるところ、歳を重ねるほど自身の経験と知識に依拠してしまうのである。
しかし、なにもこれは良いとか悪いとかという二元論の話ではなく、傾向的事実なわけであって、凝り固まってしまったという事実だけがそこにある。
私のような若い人間からすれば、そのように凝り固まった人間は人生の参考資料に過ぎない。
むしろそういう意味では、カチカチであればあるほど、より極端で過激な思想体型な人間であるほど明瞭な文献であり、何よりも興味深い。
先日、私は成人式に出席してきた。
何年ぶりかの旧友との再会、たわいもない雑談や近況報告、大人になったからこそ真に楽しめるちょっとした猥談。
人生の中のささやかなイベントをそれなりに満喫してきたわけだが、言ってしまえばこれらは式典そのものとは関係の無い個人的なコミュニケーションである。
式典そのものはというと、実に退屈であった。
市のお偉いさん方から成人する若者へ向けての言葉を垂れ流すわけだが、聞いても聞かなくても私の人生に何の変化も生じない非常に当たり障りのないカロリーゼロトークを浴びせられる儀式を「成人式」と呼称するのであれば、私は実に模範的な成人式に出席したことになる。
私がとりわけ遺憾に思う点は、そんなポップコーンのようなエネルギー量の小さい駄弁を弄する退屈な老人が、一般社会においてそれなりに重要なポストについていて、若者になにやら論じる立場にあるという事実である。
一人の人間として、それなりの地位を築き上げた大人として、それこそ凝り固まったそいつなりの言葉を私は多少なり期待していたわけだが、これでは図らずも、社会はてんで退屈で、形式的で、官僚的な無味無臭(+微弱な加齢臭)の場所であるということを示唆しにやってきたツァラトゥストラである。
自分の意見を持って主体的に生きろと、教育課程でそう言われながら育ってきた私達だが、自分の言葉を持たず機械的に生成された官僚的な原稿用紙を棒読みするだけの大人を成人式にて目の当たりにさせられる惨状は如何なものか。
日々日常を生きる中で、「若者はこうであるべきだ」とか、「成功の秘訣は○○にあるのだ」とか、自然と沸き立つ独自の哲学観というものがあるはずであろう。
このモラルの時代、20歳ならではの「尖り」の真っ只中にいる私のような人間が期待するようなノーマルからの逸脱は、現実的にハイリスクローリターンなのは重々承知しているつもりだが、とはいえ、クリエイターやデザイナーが自身の作品において商業性と芸術性の配分を吟味するときのような、バランス調整的なプロセスを経たオルタナティブがそこにあっても良いではないか。
IT革命以後、時代が必要としているのは"ユニークな破壊者"であって、AIに代替しえる"従順な労働ロボット"の大量生産の時代は終わったことだろうに。
そんな行き場のない憤りを、ここに記しておく。
これは私の感情の記録だ。
ともあれ、私もいずれ年老いて、カチカチに固まったコンプライアンスオバケになってしまうかもしれない。
さらに不幸なことに、その固まりをうまく社会活動に活かすこともできず、退屈で卑屈な説教を垂れるだけの保守botになってしまうかもしれない。
そうなったとき、私を氷から動ける人間へと解放するタッチをくれる仲間の存在が重要だ。
氷鬼は、凍ってその場から動けなくなったときでも仲間の救済によって復活できるというのがミソなのだ。
人生の友は大切にしなければならない。
成人式で話したり写真撮ってくれたマブ、これからもよろちくび。
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