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怒る人間へ思うこと。

僕は現在、あるお店の経営に関わっているのだが、
その現場や、そこで出会う人間達を見て思うことがたくさんある。
今回お話ししたいことは、「経営について」と呼ぶのか、
「マネージメントについて」と呼ぶのかが、少し分からないような内容だ。
この記事の題名が「怒る人間へ思うこと。」なので、
もっと何の話しをしているのか分からないのだが、僕の記事にたまたま出会い、まぁ少しでも時間がある方がいたら、ぜひ読んで頂きたいと思う。

今関わっているそのお店の従業員は、主に若い女性で、
経営側は主に中年の男性である。まぁそんな中年の男性達が、
若い女性従業員とうまく関われていないのだ。
その間にいるのが現在の僕で、世の中ではこういったポジションを
中間管理職と呼ぶらしいが、僕はこのポジションを今まで経験したことがなかったので、日々たくさんのことを学ばせてもらっている。
そんな学びの現場の中で、僕がどうしても気になってしまうことは、
経営陣が従業員を注意する、その内容だ。

「言ったことをやってくれ。」というのが経営側の注意するポイントなのだが、僕はその「言ったことをやってくれ」というのが、どうも気に触ってしまう。なぜかと言うと、人間には個性があり、意見があり、その人にしか出来ない表現があるからだ。そんな、十人いれば十色あるという事実があるにも関わらず、その十色を一色にしようとしていることが、
どう考えてもおかしいのだ。
一色になっているときは、何も注意せず、それが二色や三色になると怒る。
そしてもっとひどいのは、その一色の色は、中年男性の意見と感想なのだ。
どういうことかと言うと、経営側がやってほしいと思っていることをやらずに違うことをやった場合は怒られ、その違うことをなぜやったのかという従業員の意見を聞かないのだ。
僕はこの現場を初めて見たとき、絶望して辞めようかと思ったが、
「そんな中年男性に若い女性従業員が潰されないように」という僕なりの正義感のもと続けている。

今回お話ししたいことの本題はここからなのだが、
その経営側にいる中年男性はなぜ怒っているのだろうか。
なぜ人の意見を聞かず、自分の価値観だけに基づいた、意見と感想だけを
「怒り」という感情に乗せて言ってしまうのか。
そのことについて、今日現在の僕なりの意見を述べ、この中年男性
(以下Aさん)を通して、世の中にいる、全ての怒る人間に対して、愛を持ってあげてほしいと思うのだ。
「愛を持ってあげてほしい」を別の言い方にすると、
その人の怒りはどこから来ているのかを客観的に見て理解し、
それを自分に置き換えたとき、相手の気持ちも理解できる
というような感じになる。

話しを戻すが、
Aさんは、なぜ言ったことをやってくれないと怒るのだろうか。
言ったことをやってくれない従業員がムカつくから怒るのか。
いや違う。言ったことをやってくれない従業員のせいで、
お店の売り上げが下がり(という幻想)、その責任を取るということに対する、不安と恐怖があるから怒るのだ。
このことについて話すとそれだけで一つの記事になってしまうのだが、
ここで一つ言えることは、結局自分のことしか考えていないのだ。
そして、自分の経営に対する価値観が正解だと思っていて、
それ以外の価値観に沿って行動することが怖いのだ。
要は、臆病なのである。

世の中にいる、怒る人というのは、大体これに当てはまると僕は思っている。心の奥底にある恐怖と不安を怒りという目に見える物理的なもので隠している。そんな人に怒られてしまうと、特にまだ社会をあまり経験していない学生だったりすると、怖くて萎縮してしまう。
僕も学生の頃はとにかく怒られまくっていたが、毎回本当に怖かった。
その人からは恐怖しか感じず、自分から心を開くことなんてできなかった。
でもそんな僕も少しだけ成長し、怒っている人を客観的に見れるようになった。今では怒られても、この人はなぜ怒っているのだろうかということを
見つけ出すことに必死になってしまい、その状況を、「自分が怒られている」ではなく、「自分の目の前に、自分に対して怒っている人がいる」という状況で認識してしまうほどだ。

恐怖と不安から怒りが来ているのであれば、そして、その相手の状態を自分に置き換えてみることができるならば、その人を愛することができると、
僕は思う。
なぜそう言い切れるか。
それは、自分だって、持っているものを失う怖さ、結果を出せなかったときの悔しさ、そしてその原因が自分以外にあった場合に湧いてくる怒りがあるのではないだろうか。みんな必ずそういった経験をしていると思うし、自分がそういう状況にあったら、誰かに助けてもらいたい、慰めてもらいたいと思うはずだ。
怒っている人だって、何かを守るために必死なのだ。だから怒ってしまう。
それは、愛犬の存在が大事だと思うからこそ、愛犬が道路に飛び出そうとしたときに、相手が犬だということを認識しているにも関わらず、なぜか怒ってしまうのと同じだ。

だから僕は怒っている人たちを愛する努力をする。
ときには理不尽なこともあり、苛立ちを覚えることもあるが、
それでも愛するべきなのだ。
これは結構な確率で出会う「怒り」なのだが、
その怒りがお金から来る場合だったとき(売り上げが下がる、自分の給料が下がる、立場がなくなるなど)、僕はもっと悲しくなってしまう。
お金は生きていくためには必要なものであり、だからこそとても大事なものなのだが、所詮お金である。
この資本主義で生きていくためのマネーゲームで恐怖と不安を感じ、
その恐怖と不安から来る怒りを見たとき、僕は悲しいのだ。
いつでもどこでも自分は自分の力でお金を稼ぐことができるという自信があれば、そんな怒りは湧いてこない。(例外はあるが。)
この立場がなくなると、この仕事がなくなると自分は今までの生活が出来なくなるかもしれない。子供や奥さんを養っていけなくなるかもしれない。
そんな不安を自分で全て受け入れることが出来ず、人のせいにしてしまうのだ。もっと自分の能力を磨き、誰かの為に必死で自分の能力を使い生きていたらそんなことにはならなかったのではないか。
そんな想像を膨らませていると、怒っている人が可哀想に見えてくるのだ。

僕自身が、いつでもどこでも自分の能力を駆使してお金を稼いでいけるという確固たる自信があるわけではないし、さっき述べたような人のことを下に見たり、馬鹿にしたりしているわけではない。
そういう人が自分の前に現れたとき、自分がその人に自分を感じ、
その自分の無力さを愛することができたとき、自分の目の前にいる怒っている人は救われるのではないかと思うのだ。


もし怒っている人が自分の目の前に現れたら、客観的な視点を持ってその人を見てほしい。できればネガティブな心のフィルターをかけずに。
そうすれば必ずその人がなぜ怒っているのかを理解することができ、
その根底にある何かに自分を感じ、その自分を可哀想で無力なのだと思うことができれば、相手を愛することができるはずだ。
そしてその怒っている人と良い関係(本当の心と心でぶつかり合う関係)を築いていけるかもしれないし、そうなれば、自分も相手から成長させてもらい、相手も自分から成長し、お互いが成長し合うことができる。
これこそが、人間が愛と呼ぶような超高次元のパワーの凄さであり、
このパワーを持つ人間に自分がなれたとき、自分の人生は沢山の人々に良い影響を与えることができるのだと思う。
僕は人生をかけてそんな人間になりたい思うし、
それこそが、この世に生を与えてくれた親をはじめとする全ての存在への恩返しだと僕は思っている。

Ryoma Kobayashi

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