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能力、知識、ひらめきの本当の正体とは?

能力は文脈に依存し、知識は言葉で伝えられず、ひらめきは無意識のおかげ。

面白い本を読んだのでnote書く。

〇〇力というものはない

思考力とか計算力とかそういう〇〇力というものはないと断言している。たしかに個人に能力があることにはあるけれども、文脈が変わってしまう。たとえば、縄跳びを人前では緊張して飛べなくなるなど。

よくあるのが転職して、前職と同じ仕事なのになかなか成果が出せないなどは文脈依存性が強いということ。

文脈依存性とは同じ構造を持つ課題に対して、その課題が現れる文脈が異なると、まったく違った反応が出てきてしまうことを意味している。
(中略)
つまり同じ構造の問題であっても、その構造が現れる文脈によって答えが大きく異なってくるのだ。これを認知(あるいは思考)の「文脈依存性」と呼ぶ。
(中略)
能力は安定性を持っており、基本的にはいつでも同じように働くというイメージが強いと思うが、ここで見てきたように人間に関して言えばそうしたことは期待できない。それは文脈に応じて働いたり、働かなかったりするものなのだ。

知識は「記憶」ではない

単に覚えている事柄は知識とは呼ばない。

だから書物を読んでも、そこから知識を得ることはできないのだ。それが表すのは「情報」であり、もしそれを覚えたとすれば「記憶」となる。

使える知識とは一体何なのか?要素は3つあり、

  1. 一般性

  2. 関係性

  3. 場面応答性

一般性とは、広く知れ渡っていて、いろいろな場面で応用できること。
関係性とは、知識同士が関係性を持っていること。
場面応答性とは。必要とされる場面において使えること。

はい、じゃあどうしたらいいのか?著者の論としては基本的に我々はある状況または環境にいて、その中で何らかの行為と通して環境に働きかける。

その反応が環境から返ってきて、認知を行う。これを延々と繰り返していく。その反応の中には無意識的な情報も含んでおり、言語化できないため知識として伝えることはできない。

つまり知識自体は身体や環境を通して構築されるものであり、言葉だけで、伝えることは難しい。

この構築されるモノという感覚は新しい。身体知に近しいものを感じる。

結局やってみないと知識としても経験としても身につかない。やってみるのが大事。
だとすれば認知、そこで構築され、利用される知識は、環境や状況の提供する情報を前提としている可能性がある。見ればわかることをわざわざ覚えておく必要はないし、やれば見えることを見る前に予測する必要もないはずだ。つまり環境は認知、知識の中に組み込まれており、それを支えとして構築、利用されているのだ。

上達にはなぜスランプがあり、それを乗り越えられるのか?

縄跳びで二重跳びができたときはめっちゃ嬉しかった。すぐ出来る人もいれば、結構時間がかかる人もいてその差がなんなのか本書を読むとよく分かる。(シンプルに身体能力の差もあるが)

ポイントは2つ。

  1. 試行錯誤してるか?

  2. 複数の認知的リソースを使っているか?

試行錯誤は当たり前といえば当たり前だが、何度も試してみてうまくいく方向性を探る。手を早く回してみるとか、もっと早いタイミングで飛んでみるなど試す。

複数の認知的リソースは、お手本を見ている、親のアドバイスがあるなど主に環境に依存している。考え込んでもそんなにいい案が出ないのと一緒。

この2点を行うことで「揺らぎ」が起こる。その揺らぎがきっかけになり、二重跳びが初めて出来るようになる。

1つのタイプの状況に対して、異なる行為を生み出す複数の認知的リソースが存在している。環境は各リソースに適合度の異なる手がかりを与える。その結果、各リソースの活性の度合いは異なり、そのため認知や行為は揺らぎを持つ。この揺らぎをバネにして、より適切な行為が生み出される。

スランプの正体はこの複数の認知的リソースがいい意味で揺らぎを発生させる。今まで通りに行かずやけに時間がかかったり、たくさん失敗したりする。しかし事象に対して新しいアプローチを試し続けることで、いつしか正しい道を見つけさせてくれる。(スランプの脱却)

鍵となるのは冗長性と揺らぎなのだ。つまりある一つの行為を行う際に、その実行方法が複数あり、それらが場面場面で異なる仕方で現れるのである。その結果、実行に要する時間に変動が生じているのだ。

この「揺らぎ」は、なぜ人はひらめくのか?にもつながる。


ひらめきの主人公はお前じゃない

俺がひらめいた!と思いたいが、実際は無意識下で複数の認知的リソースと試行錯誤、その結果の評価を行い、時々意識に登ってきて、たまたまひらめいた!となるらしい。

しかしひらめきは練習による変化、発達による変化と同じ、つまり多様で冗長な認知リソースとその間の競合による揺らぎが、それが実行される環境と一体となり創発される。そしてその過程の大半は無意識的に進む。だから、ひらめいた時の驚きは、実は自分の無意識的な心の働きに対してのものなのだ。

もうちょい詳しく見ていく。

意識には基本的に「制約」を気にしている。いわゆる常識や当たり前のことだ。が、無意識はひたすらに学習し、認知的リソースの自然な分配を行う。

同時に試行評価も行うので、「この制約は本当に制約なのか?」という疑問をゆるくしていく。

そうしたことで、うまく解くためには、これらの制約の働きを弱める、つまり緩和させる必要がある。制約の緩和の仕組みは至って単純だ。それは失敗に基づいている。失敗を重ねるにつれ、失敗試行を生み出した制約の強さは徐々に減少していく、つまり緩和されていく。

試せば試すほど、環境からの反応があるためそこから新たな環境が構築されて、新しい情報が無意識に入る。この無意識の働きを意識は感知しないので、俺がひらめいた!と勘違いしてしまうらしい。悲しい。

環境の側から提供される視覚情報だけでなく、身体動作を環境に加えることにより、新たな視覚情報、場合によっては触覚、聴覚情報なども得られる。こうした情報が組み合わさって新たな環境が形成される。するとはじめとは異なった探索空間が生み出される。そうした中に、解決のためのヒントが潜んでいることもある。

つまり、ひらめきを生むためには

  • 認知的リソースの多様性を増やし(アドバイスもらったり、良いお手本を見たり)

  • 試行回数を増やし、状況の変化から無意識に学習してもらい続ける

ことで認知が変わり、ひらめいた!状態になりやすい。

真の学びとは?

終章は教育制度についての批判だった、それはそれで面白かったので別のnoteでまとめようと思う。

教育の素朴理論というものがあり、真っ向から批判していて面白い
「教えればできる」「基礎から応用」という考え方を批判する。

素朴理論の典型的な例としては

  1. すべては頭の中で

  2. 教えればできる

  3. 基礎から応用

基本、こんなものは使えん!姿勢で良い。

変化の前後に質的な違いがあるという点だ。質的に違うということは、心理の問題として考えれば、発達の前後では物の見え方、考え方が根本的に違うということになる。もっと言えば住んでいる世界が違うということだ。

教育とはやはりその人と社会に変化を起こすものだなと実感。

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