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文筆家冥利。 −9年越しの約束−(前編)

それが動き出したのは春先のことだった。かねてより親交がありながら、コロナ騒動で少しく疎遠になっていた畏友(それが一方的な私の思いでなければ何よりではあるが)である彫刻家から一本の電話が入った。

話はおよそ9年前に遡る。当時私が関わっていた仕事の延長で、才能に比してまだまだ知る人ぞ知る現代美術作家の掘り起こしをしたいという夢を持つクライアントの希望で、私は時間を見つけては若手作家の展覧会に足繁く通っていた。それが高低や巧拙で語られることが適切かどうかは措くとして、少なくとも自分軸の審美眼は持っていたつもりの私は、いわばスカウターの役目である。
なにしろ、クライアントの本業とは異なる仕事を作るわけだから、こちらも暗中模索である。ただでさえ切磋琢磨に手間暇も惜しい坂たちに、こちらもあまり美味い話はできない。夢を見せて応えられないことが、この人たちにとってどれだけ酷いことか私にはよくわかっていたからなおのことだ。

この畏友・浅香弘能との出会いは、そんな作家探しの日々の中で、たまたま別の方の展覧会で見かけた一枚のDMハガキがきっかけであった。そこに写っていた作品は、インパクトもさることながら、ただただ真に作品を見てみたい、という強い関心を掻き立てずにおかなかった。
そこで思い立って、すぐに彼の作品展に足を運んだわけだが、彼の作品群を目にするや、素材や技法からして私の想像をはるかに越えていたのはもちろんであるが、それ以上に、束の間現世や俗世のあれこれを忘れさせる圧倒的なタナトス、崇高で耽美な死化粧に囲まれているような、この世ならざる空気に包まれ忘我の境地に到った。このような、狂おしいほどに命の際を擦るような彫刻を、これまで私は目にしたことがなかった。

この日は作家ご本人には会えなかったように記憶している。その時は、ただ作品に魅入られはしたものの、その後の縁を想像してはいなかった。しかし何度か足を運ぶ中で、当の作家本人と会うことができ、やがて勝手な意見や感想を述べたり、互いに交流する間柄となったのだが、ある程度距離が縮まったところで、思い切って件のプロジェクトの話を持ちかけてみた。当時からしてとても真摯でありながら情熱的な面も持つ彼であったから、ただでも忙しい中で、この趣旨に賛同し協力してくれることとなった。

プロジェクトが霧消するまでの経緯はここでは省きたい。決してそれは後味の悪いものではなく、むしろ若い一時期を前例のないことの実現に燃やした時間は楽しかった。たくさん学び、たくさんのご縁が広がった濃厚な時間だった。
しかし、ハードルは低くはなかった。誰一人片手間にこれに臨んだ仲間はいなかったが、本業を脇に置いて取り組むにはあまりに壮大な計画であり、再挑戦すること能わぬだけの挫折をともにすることとなった。
そのような中にあって、この彫刻家は常に協力を惜しまなかった。少しでも我々が前に進めるよう、喜んで自分を投げ出した。

しかしながら、プロジェクトが、再開の約束のない無期限の活動休止に入ったところで、声かけをした私にすれば、ただ浅香弘能という男に申し訳ない、という気持ちは残った。誰よりもプロジェクトに献身的な彼であったからこそ、なお一層、彼を巻き込んでしまった自分を責めた。
そうしたわけで、私はいわゆる美術評論家ではないものの、その当時の自分のすべてを投入して、彼のために文章を書いて送った。それこそ烏滸がましい話だが、今後もしどこかでこの文章が彼の役に立つのであれば、どうか自由に使ってほしい。自分にできることはそれしかなく、だからそれにすべてを込めた。自分が心を込めて大切に書き上げた文章を贈る、それが精一杯の気持ちだったのだ。それは、過日電話で笑い合ったことだが、確かに私から彫刻家への〝恋文〟だったのだ。彫刻家は、必ずどこかで使わせてもらいます、と礼をもって受け取ってくれた。(つづく)


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