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旅情奪回 第24回:苔テラリウムの旅。

巧拙はともかく、昔から手先のことが好きで、何かを作ることに没頭できる性格だ。いくつか作ると長続きしないのが玉に瑕ではあるが、それでも、その瞬間は新しい玩具を与えられた子供のようについ時間を忘れてしまう。ましてや、私も大人になったのだから、子供のころよりは「予算」もある。
ここ数年は、ハンドメイドクラフトがブームで、チャンスがあれば若い学生や子どもたちの美術部の展覧会にも足を運ぶが、絵画はほとんど見かけない。少し前に多かったイラストよりも、いまはハンドメイドクラフトが主流のように見える。

インターネットでも、様々な素材を使ったハンドメイドクラフトの写真や動画が毎日毎秒アップされている。世界には、日本には、こんな手先が器用な人がたくさんいるのだな、といつも感心させられるし、作風も方法も含めて、目から鱗が落ちるようなアイディアに満ち溢れている。今や、世界はハンドメイドクラフトの楽園だ。

私自身は、大好きなパンや菓子の勉強にもなるということで、数年前まではミニチュアフードをしこしこと作ってきた。最近はもっぱらレジンクラフトにはまっており、小物を作ったり、主に色の技法を上達させたくて、下手ながらも時間を作ってはこれまたしこしこと作品をこしらえてきた。
夏になった。レジンもいいのだが、もう少し目に涼のある何かが欲しくて、なにか面白いものはないかと探していて目に止まったのがテラリウムであった。昨年、やはり夏にワークショップをちらと覗いたことがあったので印象に残っていたのだろう。

いざネット上の情報を片っ端から検索してみると、やはり両手がうずうずし出して、もう矢も盾もたまらなくなり、炎天下、急いで100均とホームセンターにでかけていった。

こうした「小さな世界」の歴史は、西洋にも、もちろん東洋にも存在してきた。庭園や、たとえば茶道のしつらいの中にも小さな世界の再現や表現、つまり景色が存在する。私も若い頃茶道を習っていて、今で言うところのテーマやコンセプトを、いかに季節移ろうひとときの中に表現するかについて師から教わり、随分とまじめに勉強したものだ。

テラリウムというのも、多分に「景色の技」と心得る。遠い子供の頃、近所の同級生が立派なNゲージを部屋に展開していて、ある夏休みに招かれて目にしたとき、羨ましいような気持ちと同時に、一種の憧憬を抱いたことを思い出す。
精巧な電車が同じ線路をくるくると巡回するだけならばあれほど感動はしなかっただろう。しかし、そこここに配置された鉄道員や観光客、駅や橋、豊かに生い茂って永遠に枯れることのない木々…。そうしたリアリティを演出する、これまた精密なミニチュアたちの「景色の語り」があったからこそ、よく冷えた麦茶を飲むのも忘れてしばしぼうっと、この小さな世界に見惚れてしまったのだ。

テラリウムもまた、そこにリアルな景色があってこそ、苔の命が生きる。フェイクとリアルが交錯し、あわよくば一体になる。そこに生まれる景色に、小さい世界を愛でずにいられない、どこかレトロで甘酸っぱい情緒(そうだ、あの夏の麦茶は、あるいはカルピスだったのかもしれない)が立ち上がるのである。

先日沖縄から戻ったわけだが、私は沖縄には海の幸のほかに山の幸があるといつも思っている。沖縄の海は無論美しいが、鬱陶しいほどに湿潤な北部の森や山の自然もまた、大好きなのである。今回の旅では、残念ながら沖縄の山の幸にありつくことができなかった。それで、なんとなくやんばるの山の中で、細い小川や池を見つけたときの涼感を、このはじめてのテラリウムに表現できないかと考えたのである。

今回使用したのは、ハイゴケ、コツボゴケ、シノブゴケ、ホウオウゴケ。それにフェイクグリーンモス。ケースは、軽くて割れないこと、横置きで蓋の形状が面白いことからフィギュアのディスプレイ用プラスチックケースにした。そのほか細かい道具の数々や実際の作り方は、私がここで述べるまでもなく、先達の情報を参考にされることをおすすめする。ひとつこれまでのモノづくりの経験を流用して、テラリウムを縦に流れる小川は、化粧石を敷いた上に、レジンで作った川を置いてみた。

川というより、ちょろちょろと流れるせせらぎをイメージした

取りかかってみると、やはりこれもまた時間を忘れるほど没頭してしまった。なにより、普段めったにしない土いじりが心地よかったし、土の香りに癒やされた。なにぶんはじめての試みだ。見返してみるとどうしても、やり過ぎな感じはある。しかし、これはこれで、なんとなくやんばるの自然を凝縮したような雰囲気はある。満足だ。

いささか鬱蒼としてしまったが、小さなランプでライトアップすると景色も変わる
蓋のあるビンが定番だが、横開きの円筒形ケースはディスプレイの面白さがある

あとでもう一度、様々な作家の様々な作品を見てみたが、これからの私に必要なのは、引き算の美なのだろうと、その奥の深さに驚嘆したりする。
はじめて苔テラリウムを作ってみて、あらためてこうした、小さな世界に小さな景色を思い描き、形作るというのもまた一種の旅。強いて言うならば、旅ができないときにする「現実逃避の旅」。
それもまた、とびきり楽しい「現実逃避の旅」なのではないだろうか。しばらくは苔との戯れが続きそうである。(了)


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