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親になってみたいと口にする

 同性愛者が結婚することに意味がないと言い立てる誰かは、全ては蟻の一穴であり押しとどめなければあらゆる伝統が壊れ日本が終わってしまうのだと言う。どの伝統だろう、約130年間続いたあれのことだろうか、これのことだろうかと問いかけても答えてくれない。私など目の前にいないように、「奴らは結婚できるようになれば次は子どもを欲しがる。貧しい国の女性に代理出産をさせようとする」と言う。しかし、確かに親になってみたい気はする。それを言葉にしたら、それ見たことかと言うのだろうか。そこで初めてそこにいたと認めて、やっと目を見て。言質を取ったと、「こいつが言ったぞ! やっぱりそうなんだ!」と、そう言うのだろうか。

 私が考えるのは、例えば親がおらず18歳になって、養護施設を出なければならない子の名義上の親になることだけれども。父と呼んでほしいのではない、定期的に会いに来る必要もない、自活できるようになったら縁組を解消して構わない。でも親のない子が携帯電話を契約し、賃貸アパートを契約し、仕事を得るために名義上の親を必要とするなら、助けられるかもしれない。私にも役割が見つかるのかもしれない。そんなことが一般的なことなのか、今可能なのか、それこそ問題視する人たちが現れて潰されるのか分からないけれども、できることがあるならしてみたいと、そんな希望は確かにある。もちろん「その子たちがゲイ・ペアレンツを選ぶならば」、だが。

 シス‐ヘテロなら18歳になると結婚もできるし親になれるのだという、しかし私が結婚するどうかは私には決めさせられないのだという。だから私は夫になれない。ならばきっと人の親になどなれないのだろう。そう遠からずパートナーも私もそれぞれ別世帯の独居老人になる。助け合うことは認められず、共にいることさえ元気なうちだけだ――「どこの施設に入ったかはお教えできないんです。ご家族じゃありませんので」。そういう運命を予期しながら生きることが、苦しくなる。私はこの国で人間なのだろうか。税金だけは平等に徴収されているからどこかで誰かに分配されているのだろうけれども、伴侶を法的に守ることはできないし、誰かのために生きたことはカウントされない。

 ならば、なぜ人の道を説いたのか。愛せと教えたのか。不意に駅の雑踏で誰もが敵のような錯覚が起こる。ただ今日はそんなバイオリズムだったというだけの、馴染み顔の、とうにやり過ごし方も知っている、その感覚。

 今日笑った。明日も笑おうか。でもこの日々の先には絶望があると知っている。必ず別離が待っている。通勤電車が停車すると幼稚園児たちの声が聞こえた。バイバイ、バイバイと電車に手を振っている。窓に向き直り、子らに手を振り返した。ただそうしなければならないような気がして。なぜそうするのか昨日は知っていたと思う。でも今日は分からないまま両手を振っていた。なぜ身体は生きようとするのだろうか。何に従って、何を目的に。分からないまま生きてしまうこと――誰か警察に電話した方がいいよ。通勤電車から幼稚園児に手を振った同性愛者がいたから排除してくれと。あいつホモだったんだぜ。
 きっと明日また人間が好きだと思う。でも今日は人間が嫌いだと思う。何があったわけじゃない。ただ生活実感として常にどちらもあるのだ。

 怨嗟で生きているわけじゃない。むしろどうして憎み切れないのか分からないのだ。コンビニの人にもすぐ心を開いてしまう。「いらっしゃいませ」じゃなくて「お疲れ様です」と親しみを込めて言ってくれただけの人とさえ、無性に友達になりたくなる。幸福を願いたくなる。人恋しくてならない。でも死んだら「人を愛した人生だった」なんて絶対に言って欲しくない。ちゃんと恨んでいたと憎みもしていたと知っておいてほしい。それは、せめてもの礼儀として「そこに追いやっていた」と、知っておいてほしい。

 誰かの人生を支えたと、私は認められたことがない。誰も救わない人生。何かを残さなきゃ。時間がない。でもこんな夜は、何も希望が書けない。すぐベッドに入れよ。それで眠るんだ。朝が来たら、どのネクタイにするか考えるんだ。



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