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「悪いのは子どもではない」とは、どういうことか。

高校生へのキャリア支援を考えるシリーズ第2弾は、「悪いのは子どもではない」とは、どういうことか。この言葉は、公文式創業者・故公文公先生が残した言葉だとされ、勤務校でもしばしば耳にするフレーズです。

公文式HPでは、"悪いのは子どもではない"について以下のように説明しています。

公文 公(1914 - 1995)

公文式は、あくまで「悪いのは子どもではない」と信じるところから出発します。子ども一人ひとりの可能性を発見し、個人別にその子どもの「ちょうど」のことを学習させていけば、親や先生はもちろん、本人にとっても思いもおよばなかったような成長をとげることができ、「自分にはこんなにも可能性があったのだ」と自信をもつことができるのです。これが公文式の学習法です。

KUMONの原点

公文式では、今や時代の常識にもなりつつある「個別最適学習」に60年以上前から取り組んできたのです。

今回は公文式の宣伝ではなく(笑)、「悪いのは子どもではない」という考え方が、高校生へのキャリア支援を考える際のベースとしても機能する点について綴ります。


1.悪いのは誰か?で良いのか?

「悪いのは子どもではない」のであれば、一体誰が、何が、悪いのでしょうか。

教壇に立った1年目、「絶対オモロいだろ!」とドヤ顔で臨んだ授業で、生徒たちが寝たり、内職したりと、面食らいました…。いま思えば、コンテンツベースの一斉講義型授業…当然、面白いと思う生徒ばかりではなかったのは必然だったと、反省しています。

公文式の理念に照らしてみれば、教師が学びの動機や方法をデザインすることは、とても重要なことです。

他方、現場の一教師の立場では、変えようもない社会構造が横たわっていることも事実です。

価値観が多様化した工業型社会と現代との違いは「希望」の有無にあります。ニュースを見れば、失われた30年、超高齢社会、新型コロナ、ウクライナ危機など、暗い話ばかりが並びます。

工業型成長社会に存在した「成功モデル」が崩れ去り、ある意味で「自分らしく生きる」ことを強要されている現代の子どもたちは、自由度が増したが故に、不自由になっているとも言えるのではないでしょうか。

ついには「やりたいこと症候群」という言葉まで生まれ、やりたいことがない自分はダメな人間なんだという自己否定に陥っているケースもあるようです。

・・・とは言え「世の中が悪いから」と環境決定論的に結論づけたところで、何か変わるのでしょうか。

個人心理学を説くアルフレッド・アドラーは、「〇〇のせい」という原因論を徹底的に批判し、「人の行動には全て目的がある」とする目的論を唱えています。

たとえば、「家で勉強できないのは兄弟がうるさくて集中できないからだ」というのは原因論であり、勉強できない(しない)目的が別に存在すると言えます。なぜならば、兄弟がうるさいのであれば図書館に行って勉強する人もいるからです。勉強できない(しない)原因を勝手に創り出しているとも言えます。

もちろん、政策決定などの際に家庭環境の改善を図るなどということは必要でしょう。しかし、教師として生徒個人を見つめる際には、子どもの能力の欠如や態度の悪さを家庭や社会の環境のせいにして、原因を特定したところで報われる訳ではありません。

Alfred Adler(1870-1937)

現場に立つ我々教師は、社会という「森」を見てデータやエビデンスで考えつつも、目の前の「木」・・・つまり生徒一人ひとりを観ることができているでしょうか。



2.子どもたちを、どう観てしまっているか?

どう観るか、について考える前に、我々が子どもたちのことを「どう観てしまっているか」について自覚するところから始める必要があります。

「悪いのは子どもではない」と分かっていながらも、どうしても教育という言葉自体が「教えて育む」となっていることもあり、子どもは不完全な存在で教えて育まなければいけない、という無意識の偏見(アンコンシャス・バイアス)を抱いてしまいがちです。

そもそも、人間は自分の思考を全て意識できている訳ではありません。無意識を認識する上で重要なのがアーロン・T・ベック博士によって開発された認知療法の考え方です。

自動思考とスキーマ

我々の行動や感情、そして身体反応などは「自動思考」によって規定されている部分があります。自動思考とは、文字通り自動的に考えてしまうことです。人は生きていれば様々な出来事に対して何らかの感情を抱きますが、同じ出来事でも人によって感じ方は違うはずです。

その「自動思考」を生み出しているのが「スキーマ」、つまり考え方のクセのようなものです。スキーマは過去の経験などによって形成されることが多く、以下のような無意識的な価値観やルール、思い込みが挙げられます。

①感情的決めつけ
証拠もないのにネガティブな結論を導き出してしまう。(「返信が遅い」→「嫌われた」など)

②選択的注目
実際は良いこともあるのに、些細な悪いことばかりに注目してしまう、など。

③過度の一般化
わずかなことから広範囲のことを結論付けてしまうこと。たったひとつの失敗から「自分は何ひとつうまくいかない」などと考えてしまうなど。

④拡大解釈と過小評価
ネガティブなことを大きく、良いことは小さく考えてしまう。

⑤自己非難(個人化)
・自分に関係ないことまで自分のせいだと考えてしまう。

⑥0か100か思考
白黒はっきりつけないと気が済まない。必要以上の完璧さを求めてしまう。

⑦自分で実現してしまう予言
否定的な予測をして、自ら行動を抑制し、その結果その否定的な予測を実現してしまう。「どうせ誰も自分に声をかけてくれない」というような否定的な予測をし、人との交流を避け、結果的にますます誰からも接触されない状況に陥ってしまう、など。

https://rollingstonejapan.com/articles/detail/34341/3/1/1

考え方にクセがあること自体が悪いのではありません。人は誰しも違う考え方を持っていることが自然であり、その自由もあります。

問題なのは、自分の考え方を自覚しないまま、子どもたちに価値観を押し付けてしまうこと。

(私を含め)就活を経験せずに教師になった人の多くは、「自己分析」を本格的にやる機会がありません。

まずは、生徒のキャリア支援を行う前に、自分自身がどういった価値観を持っているか。その背後にある経験は何か。そうした価値観を持っている「目的」は何か。一度、見つめてみるのも良いかもしれません。



3.誰しもが「自己実現欲求」を持っている

誰もが異なる価値観を持っている中で、教師は何を軸に生徒たちと対話していくことができるのでしょうか。

カウンセリングの祖とも呼ばれているカール・ロジャーズは、「人は誰しも自己実現欲求を持っている」という基本的人間観をカウンセリングの土台に据えています。

ロジャーズのカウンセリング論の特徴は人間に対する楽観的な見方にあり、それはフロイトに見られるような原罪的な悲観論とは対照をなすものである。彼によれば、人間には有機体として自己実現する力が自然に備わっている。有機体としての成長と可能性の実現を行うのは、人間そのものの性質であり、本能である。カウンセリングの使命は、この成長と可能性の実現を促す環境をつくることにある。

諸富祥彦『カール・ロジャーズ入門』
Carl Ransom Rogers(1902 - 1987)

もし、そうだとしたら、教師の役割は、生徒が生まれながらにして有している自己実現の欲求を刺激すること。そして、自ら学び、考え、判断し、行動したくなるような教育機会を設計し、対話することにあるのではないでしょうか。

現場に立っていると様々な生徒と出逢いますが、その時々で、「人は誰しもが自己実現欲求を持っている」と信じられるかどうか。


船を造りたいのなら、男たちに木材を集めさせたり、
仕事を割り振り、命令したりする必要はない。
代わりに、彼らに広大で無限な海への憧れを説けばいい。

サン・テグチュペリ

次回は、同じくカール・ロジャーズのカウンセラーとしての3条件をもとに、「聴く技術」について考えてみたいと思います。

ご覧いただき、有り難うございました!

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