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ハンドボール部の11年間を振り返って

ハンドボール部の新規部員募集停止が決まりました。

昨今の部員減、そして教員の働き方改革。覚悟していたことではあったが、いざ現実になると「廃部」という2文字が脳裏から離れない。

生徒たちに伝えた日。生徒たちも、行き場のない怒りや悲しみを隠しきれなかった。淡々と伝えるしかない自分に嫌気が差した。

OBOGに伝えた日。時代の流れだから仕方ないですよね、と大人に理解してくれる方ばかりで、いっそうやるせなくなった。

日本の部活動制度は既に破綻している。世の中では労働環境が大きく変化している中で、未だにボランティアワークに依存してきた。だからこそ美しいという価値観は理解できるし、僕自身もコスパ・タイパの世界線と距離を取りたくて飛び込んだ仕事だ。

ただ、今日の教師は聖職でもあるまいし、過労死ラインを越える働き方は社会通念からしても到底受け容れられるものではない。「部活孤児」「部活離婚」なんていう言葉がWikipediaにさえ載る時代だ。

そう、頭では分かっている。でも、大人の事情で面食らっている生徒の前で言い訳を垂れることほど、情けないことはなかった。

たしかに日本の高度経済成長は体育会系部活動から大企業へ、といった仕組みに支えられてきた部分もある。しかし、運動部の行きすぎた勝利至上主義は、思考停止を生み、ただただ将来のブラック労働に耐えうる人材を再生産してきた節もある。

一方、「いまここ」を必死に駆ける彼らが、掛け値なしの友情や、己の限界に挑戦する姿は、いつだって鮮やかで美しい。

勤務校では、ハンドボール部廃部とほぼ時を同じくして、部活動外部指導員制度が導入された。専門家に指導を仰げるというのは、生徒たちにとっても悪いことではない。

教員の働き方改革は何にも勝る急務だ。教員志望者の激減は既に学校現場を蝕んでいる。巡り巡って困るのは、未来の生徒たちなのだ。

ハンドボール部にはまだ部員がいる。しかし、幼い2児の父でもある僕は、現高3生の卒部をもって、実質的に部活動の監督業を引退する。

令和時代の部活動を肯定したい訳でも、否定したい訳でもない。ただ、時代の変わり目に、この気持ちが色褪せないように、哀愁と自戒を込めて、綴らなければならないという気持ちになった。

そもそも、僕は学生時代にハンドボールをやつってきた訳ではない。父親が東京のインターハイ常連校でハンドボール部監督を長年勤めていたこと、勤務校の恩師でありハンドボール部の創設者に誘われて顧問となったこと。偶然が重なって足を踏み入れた世界だ。

最初は何人でやるかも分からない状態からスタートした。だけど、ハンドボールは競技としてもメチャメチャ面白かったし、風呂でもトイレでもYouTubeにのめり込むほどの虫になった。

ずいぶん色んな本も読んだ。ハンドボールだけでなく他競技、組織論、心理学、コーチング・・・ハンドボール部の顧問にならなければ出逢えなかった世界にも行くことができた。

ハンドボール界で出逢った方々も、外様の僕を温かく迎え入れて下さった。試合会場で声をかけてくれたり、飲みに行ったり、研修の一環で一緒にプレーさせてもらったりした。

時代錯誤に漆黒すぎる働き方をしていたことは否めない。

でも、僕にとっては本当に素敵な時間だった。

部活動のマネージメントを通して得られた経験は、過去のnoteにも綴ったので割愛するが、右も左も分からぬ20代のうちに、教師として、人として、どれだけ成長させてもらったのだろう。

教師の仕事として「時間を忘れてできること」を挙げるとしたら、真っ先に浮かぶのは圧倒的に部活動で生徒たちを汗を流していた日々が浮かぶ。

春夏秋冬、朝昼晩。ガムシャラに関東大会出場を目指して駆け抜けた。シーズン戦績14勝5敗。関東大会は届かなかったけど、「そこまでやるか」を貫いた。まさか、卒業生から日本リーグの第一線でプレーする選手が生まれる日が来るなんて。

コロナ禍では、引退試合がなくなった。それでも100日間オンラインで部活を続けた。伝え続けた人事天命。やれることを、ただやるだけ。悔しさのなかで、僕らはただその美学を追求してきた。

どの代の生徒たちとの日々も、いまも脳裏を掠めている。”伴走”なんていう言葉は似合わない。そんな余裕は僕にはなかった。

もちろん、楽しいことばかりではなかった。そもそも何も分からずに飛び込んだ中で、生徒からすれば「ハンドボール分かってない暑苦しい若いやつが来た」状態だっただろう。ぶつかったことも一度や二度ではない。それでも、卒業後も仲良くしてくれる彼らには、頭が上がらない。

働き方改革は社会通念となり、行きすぎた労務管理や世代間断絶により「ホワイト退職」「マルハラ」なんて言葉まで出る時代。

そんななか、若者たちとガチンコで膝を突き合わせ、青春の一幕を過ごした時間は、あまりに尊い。シュートを外したら一緒にバービージャンプ。点差の分だけ往復ダッシュ。生徒たちにはアラフォーと罵られ(ミドサーだ!)限界も感じてきた今日この頃。きっと、離れて分かる価値があるんだろう。

ハンドボール指導者としては二流三流だったかもしれない。それでも、巣立っていく生徒たちから「見捨てないでくれてありがとうございました」と幾度も手紙をもらった。でも、いつもこう思って読んでいた。

「こちらこそ、だよ。」

特にここ数年は、自らも子どもを授かったこともあり、心を鬼にして1年間育休を取ったり、グラウンドに行けない日もあった。しかし、言い訳がましく何度謝っても、キャプテンは「もっと来て下さいよ~!」と見捨てずに何度も何度も声をかけ続けてくれた。

最後の試合は、7月並の炎天下だった。

限られた練習環境、ピッタリしかいないメンバー。

足をつっても、上手くいかなくても、交代メンバーもいない。点差は離れるばかり。それでも、諦めずに走り続ける。最後の試合ということもあって、たくさんの方に応援に足を運んでいただいた。なんて幸せなことだろう。

人生の目的は、勝つことじゃない。

一瞬一瞬を、悔いのないように、輝かせて生きることだ。

高校生の脆くて、不完全で、むき出しで、そして人間として本質的なところ。

たくさん教えてもらった。

3年間という月日の中で、苦しいことも楽しいことも寝食も共にしてきた時間を、決して忘れはしない。

ある卒業生と飲んだ時のこと。大企業を蹴って、スタートアップ就職を選んだとのこと。彼は少し恥ずかしそうに言った。

ハンド部やってたときみたいに、
仕事にも熱量を持ち続けたいんですよね。

「やりたいことは何か?」と問われれば答えに詰まることもあるだろう。でも、「どんな気持ちでいたいか?」は究極的な人としての在り方だ。

寂しいなぁ。寂しくなるなぁ。

でも、寂しいと想えるほど、大切な場があったということ。こんなに幸せなことはない。

終わりがなければ、次の挑戦もない。

別々の道に進んでも、目標を掲げ同じ時間をともにした者同士、いつまでも励まし、称えあっていきたい。

今まで関わってくれた135名のハンドボール部員たち。さらにはバトンをつないでくれた創部以来の200名以上のOBOGたち。

本当に有り難う。

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