執筆のための思考整理メモ・市町村合併がもたらした影響の観察
地名や地形や地勢に興味があるのと関連して。
市町村合併がもたらした影響についても相変わらず関心が強いのです。
いま自分が生活している長野県佐久市は、旧佐久市・北佐久郡望月町・北佐久郡浅科村・南佐久郡臼田町が合併し、2005年4月1日に新しく誕生した「新佐久市」です。
↑こういう表記の部分がうっかりミスっているとつらい、ミスってたらバリバリ指摘してほしいです。
自分は佐久市初の地域おこし協力隊として、いわゆる移住した身なわけですが。
最初に関わり、その後も深く、決して短くない時間を半ば閉鎖的な環境で過ごしたコミュニティは、合併議論当時「旧佐久市への編入合併反対派」として動いていた中心的な存在でありました。
合併によって、もとの名称を失った周辺地域がいかに辛酸を舐めさせられる存在にになってしまったかを日々聞かされました。
(同意できない話も多々ありました)
そのためどこかで「市町村合併による新佐久市誕生は悪策」というような刷り込みが残っており。
いまでも生活のなかのさまざまな面でついつい、住民投票がなされたその「過去の選択」で起きている良い影響・惜しい影響を見出してしまいます。
メモなので話は前後してしまうのですが。
まちおこし的な仕事のため移住してみて、いざ動いてみると相当「ヤバそう」な空気感が蔓延していました。
あ、こりゃ何もできないな、という。
今回はメモなので深掘りはしませんが。
その空気感と感情的分断の原因のひとつは2005年の市町村合併にあるのではないかと考え、市役所で公開されている当時の資料をあたったり、図書館に通い合併のいきさつをまとめた冊子や各町村史を読み込んだりもしてみました。
新しい土地で地域に関わる仕事をするうえで非常に重要なインプットであると思ったのですが、周囲からはどちらかといえば「本なんか読んでないで仕事しろ」という評価を得ました。
感情の要素を排した客観的事実とデータに触れ、出来事のアレコレがほんの少しだけわかった気がしました。
時代背景や文化を探る読み物として、むかしの公民館報の縮刷版にまで手を伸ばしました。
昭和の頃にすでに「農村からの若者の流出」を問題視する文章が掲載されていたことは衝撃でした。
当然、いまでもまだわからないことのほうが多いです。
当時の住人や関係者だって、本当のことはわからなかったのではないでしょうか。
合併協議会のwebサイトは現存しています。
▼ 佐久市・臼田町・浅科村・望月町合併協議会
https://www.city.saku.nagano.jp/outside/gappei/index.htm
当事者らから合併の件を尋ねることは、生々しい感情が真っ向から襲ってきて非常に消耗する活動なので、当時のことを人に聞き回るということはほとんどできませんでしたが。
(通常の仕事があまりにも忙しかった、という言い訳)
いまこそ何か再び記録することも「有り」なんじゃないかと思うこともあります。
メモなので書きこぼしも、とっ散らかりも、尻すぼみも勘弁していただいたいところで。
さて、自分が地域おこし協力隊という特殊な仕事のなかで触れ、思い知った地域や土地のネガティブな部分などは果たして必要な経験だったのか。
ひとつは市町村合併がもたらしたであろう、個人や地域や団体同士が複雑に入り組んだ「あつれき」など、うんと過去のものとして、何も気にせずやればよかったではないか。
いや、そこに対面したことは市民生活を送る上で重要かつ貴重かつ根幹で、大いに活かすべきなのか。
わからず、悩むことが少なくないのです。
新しい土地へ移り住んで、ほとんど表層の要素のみを見て「この地、サイコー!」なんて言ってる人がいたりすると。
①「そうだ、それで良いんだ!地域どころかもはや自治体の枠すら取っ払う勢いで、過去は気にせずポジティブに未来にむけてアップデートするため、とにかく前だけ向くべきだ!まさに、個人的に心より楽しむ気持ちがまちの幸福をつくるのだよ」
②「もっと広く深く観察して過去から現在に至る流れを研究観察しろよ、、、サイコーどころかサイテーな部分も少なくないぞ、探し当てなければ関われない層と出会え、さすれば幻想から覚め、ワクワクした感情も打ち砕かれるであろう、そこで何を想うか、話はそれからだ」
という相反する感情が同時に湧いてしまいます。
人間のすごく嫌な部分かつ、とても人間らしい正直な部分だと感じています。
新しく土地に来た人に、伝えられることは伝えたい。
しかしながら、それがその人にとって余計な情報となるリスクを恐れているのです。
自分の経験は特殊なので変なバイアスをかけてしまう危険性がある、と。
土地に関して「サイコー!」と安易に発言して良いのは観光客として訪れたときだけなのではないか、と考えたりするようになりました。
裏返せば自分も過去にはいま以上に「安易な存在」であったという強烈な反省感情があるのです。
少なくとも自分すら、さらに先輩がたから見れば生意気で面倒くさいヤツであることは間違いないので。
ものすごーーく、考えさせられます。
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