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【実家の話】記憶その2 - 母方と同じ苗字だった畳屋さんは、どこかで親戚縁者だったのかな。

 詳しいことは知らないのだが、きっと戦後間もなくの頃に母方の祖父が建てたのだと思う。
 木造平家の庭付き一戸建て。かけ算九九で思い切りつまずいた時期にトイレがいわゆる「ボットン」から水洗のそれになった以外は建築当時のまま。建具も全部、木。冬は、とても寒い。台所の水道が凍ったこともある。東京都世田谷区でもそういう現象は起きるのだ。

 南側の庭に面した居間と並んだ8畳間が寝室を兼ねていて、母と僕、そして一応、父もそこに布団を敷いて寝ていた。
 朝は祖母が雨戸を開ける音で目が覚める、二度寝したらこんどは母が回す洗濯機の音で目が覚める。学校が休みの日はだいたい朝9時半ごろまで寝て、布団からのそのそと出ていく。
 わが家にには「おはよう」のあいさつの慣習がない、朝ごはんもない。
 雨の日は雨戸も開かないし洗濯機も回らない。雨の休日は最高だった。

 起きたら布団は縁側に広げて干す。秋冬は太陽光が室内に差し込むので、光の帯に合わせて布団や毛布を移動させていく。
 祖母は畳が日に焼けるのを異常に嫌った。結局は消耗品なのだから経年劣化は仕方ないことなのだが、とにかく畳が日に焼けるのを異常に嫌った。朝夕に仏壇に向かう際は、どうか畳が長持ちしますように、と先祖代々に深く祈っていた。それ以外にもいろんなことを祈っていた。

 僕がラリーカーのラジコンにハマって室内で走らせまくっていた時期には、祖母は何度もブチ切れていた。たとえどれだけ怒られても、畳の縁を直角コーナーに見立ててドリフト気味に疾走させる爽快感には変えられなかった。
 ヘビースモーカーだった母も、ときおり不注意でタバコの灰を畳に落として焦げ跡をつくった。母と娘のケンカは子ども心にもなかなか痛々しかった。

 8畳間には床の間があって、大きな将棋の駒やら木彫りの熊やら日本人形やら、僕が幼稚園でつくった張子のお面やらが埃をかぶってひしめき合っていた。
 実家を出るまでの24年間、家族の誰かが床の間の掃除をしているところ見たことがない。当然、自分も家の中のそんなところに興味がない。いや、違う。ピンポイントできになる箇所があった。
 木製の「ます」にタップり貯められた500円玉。祖母と母は財布に500円玉を見つけると床の間のますに放り込む。僕が物心ついた頃にはそうなっていた。

 当然のことながら、僕はそのますの中からバレないように数枚ずつ500円玉を抜いて小遣いにしていた。頻度やタイミングについてはとにかく慎重に、警戒しすぎるくらいにやった。あの家に育てば誰だってやる、やらない方が難しい。
 バレていないわけがないのだが、祖母にも母にも何か言われたことはない。

 もしかしたらあれは、わが家の暗黙のお小遣いシステムだったのかもしれない。ますの500円玉が何かの支払い使われることはなかったし、むしろそこに500円玉が無防備に貯められていることで、家族の財布からこっそりお金を抜くなんてことはしなかったわけだから。

 いつだったか小学校でトキのことについて学ぶ機会があった。絶滅するかもしれない、ものすごく珍しい鳥だと教えられた。それで確か僕は先生だか友達だかに「うちにトキの剥製がある」と自慢げに話したような思い出がある。
 8畳間の床の間には確かに鳥の剥製があった。だがその正体がトキなんかであるわけがなく、雌雄のキジだと知るのはもっと大人になってからのことだった。

 枝にとまった2羽のキジの隣でガラスケースに入ってすましていた日本人形の正体は、沖縄の琉球舞踊の踊り子だと知ったのはもっともっと大人になってからのことだった。
 レンタルで観た北野武監督の映画『ソナチネ』で、あのガラスケースの日本人形と同じ衣装を着た踊り子のシーンが流れたときの「これ! あれだ!」という電撃感たるや。

(つづく)

実家の話02-2


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