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なぜ撮るのか

職業カメラマンとして30年以上が過ぎた。食うための撮影は依頼されてのものである。一方で依頼されていない撮影も続けている。前者を「仕事」、後者を「私事(しごと)」と呼んでいる。主に私事の金にもならない写真を「なぜ撮るのか」。それについて考えることがある。

中学で写真と偶然出会い、その面白さの虜になった。この頃はまだ趣味だっただろう。高校で写真部に入る。大学は写真学科を選ぶ。だんだん趣味が鍛錬になっていく。プロになるための訓練の一方で自己の表現も捨てがたくなる。卒業してアルバイトやアシスタントを経てカメラマンで食えるようになる。そして「仕事」と「私事」はずっと続いてきた。

まず「仕事」としての撮影とは何か。私のようなフリーのカメラマンの撮影について説明するのは難しい。特に田舎の親戚などには理解してもらうのに時間がかかる。写真の仕事というと、スター写真家の篠山紀信か、地元の写真館や写真屋さんかしか想像できない人が多い。あとは新聞社のカメラマンくらい。フリーって何?そんな時には身近にある雑誌やチラシなどの印刷物、商品のパッケージ、それらを例にして「名もないカメラマンが大勢いるのですよ」と言うことにしている。これが「仕事」だ。

たとえ掲載誌を見せたとしても、「撮って載せたの?」と聞かれる。いやそうじゃなくて依頼されて撮るのだ、ということが理解されない。大工や料理人と同じと言っても分からない。たぶん住居や食事は生きるために必要なものであり、それを提供するプロの存在は分かる。しかし写真は趣味で自発的にやるものなので、プロの存在が理解しにくいのだろう。何かとても華やかな職業だという想像もされる。実際には例えばダスキンの足ふきマット交換のようなルーティンな撮影もあるのだけど。

もう一方の「私事」。これはもっと難しい。「どういうテーマで撮っているのか」「将来は写真展とか写真集にするのか」と絶対に聞かれる。そういう固定観念なのだろう。これに対して「テーマ主義ほど退屈な物はない。ストレートフォトグラフィーこそ至高の存在なのだ」などと本音を言っても意味が分からないだろう。ある時は同潤会アパートの扉のモノクロを年賀状にしたが「何でドアなんか撮るの?」と聞かれて返す言葉がなかった。「何で」…。写真そのものが好きになってしまったことの悲劇である。思えば「写真そのものを見る」という習慣を持つ人は少数派なのであろう。

実はこの難しさは同業者に対しても同じである。プロのカメラマンの中には仕事以外ではカメラなど触らない人も多い。写真の話ができるカメラマンは少ないのだ。職業として割り切れる人、仕事が認められれば満足できる人はそれで良いだろう。私は写真を嫌いにならないために必死だった。だから私的な撮影でも「趣味」などという道楽ではないのである。

大学1年の時だったと思う。ペンタックスで浅草の路地裏を撮影中に、若い巡査が声をかけてきた。「何で撮ってるの?」。ドキッとした。もちろん巡査としてはパトロールの一環で、路地で撮影している私に防犯のために声掛けしただけだろう。彼の中では写真は綺麗な風景を撮るものであり、暗い路地裏をこの人は何のために撮っているのかという素直な問いである。しかし若かった私は、とっさに「これは写真論だ」と感じ、「なぜ撮るのか?それは難しい質問ですね」と答えたのだった。巡査は一瞬怪訝な表情をしたが、私が写真を学ぶ学生だと知ると話につき合ってくれた。最後にはすっかり仲良くなり1枚記念に彼を撮影した。

最近では住宅地で撮影中に、地元住民に声をかけられた場合に備えて「いやあ、この冬の日差しが綺麗だったので」などの答えを何パターンか用意してある。なにも「日常に潜む不気味さが好きなのです」と本当のことを言って不審者と思われることもないのである。撮る行為が素早くなったので声掛けされることはないが。

これを書いていて答えが出てきた。自分のために撮っているのだ。少なくとも他者のためではない。時代の記録などと大仰なことを言うつもりもない。しかし自己の存在を賭けて撮っているということは言える。

どんたく裏01
どんたく裏02
どんたく裏03

気になる場所は何度でも撮る。この写真は近所の空き地だがそんな場所である。定点観測にする気はない。「記録」を意識すると写真はつまらなくなる。その時のカメラとその時の撮り方で良いのだ。次の写真もそうだ。

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これは時間のシークエンスだがアナログとデジタルである。
時間だけでなく歩行によるシークエンスもまた好きな写真だ。

梅雨時の空き地01
梅雨時の空き地02

昔は「心象風景」と言ったが嫌な言葉だ。だが何か異界の入り口というか、何かの際(きわ)に出会った瞬間のような、ゾクッとする写真が好きだ。それはトピックがある景色ばかりとは限らない。幼少の頃にふと不安を感じる瞬間があったが、そんなときの光景の記憶に近い。「私がいた場所」「私が見たもの」であり、それが自分にしか撮れない写真だ。

神田川

ここまでは街の風景や静物についてだ。基本的にはそれらを撮るのが好きだ。しかしたまには人物スナップをすることもある。これについて書いてみる。少し前にフジフィルムのカメラのCMで暴力的に通行人を撮る映像が問題視された。それは私が見ても気持ちの悪いものだった。しかし最近では何でもかんでも「盗撮」とされてしまうが、それは違うと思う。

法律の専門家ではないが、結論から言うと、公の場所では「見えるものは撮って良い」はずだ。不特定多数の人が通行する場所での写真で、全員の顔にモザイクを入れているのがあるが写真としての体をなさない。そんなものは発表しない方が良い。車のナンバーなども同じである。

あとは法律じゃなくマナーの問題だ。撮られた方が不快になる。あるいはわざと変な顔や性的な瞬間を撮る。それを面白がって発表する。これはいけないと思う。撮る時と発表する時の2回ともよく考えるべきだ。次の写真は1995年前後にオリンパスXAで撮った銀座のスナップである。

銀座01
銀座02

オリンパスXAは1979年発売。カプセル型のコンパクトカメラである。フルマニュアル可能でレンズシャッターの音が小さく、80年代にはこれによるスナップが流行した。現在新聞社の写真部に勤務するNは、学生時代にこのカメラで北朝鮮と韓国の国境を撮影して大四つ切に伸ばし発表した。私は中古で入手してスナップに使った。銀座や新宿の通りや交差点を往復してノーファインダーで撮影した。いわゆる「隠し撮り」である。

撮るにあたって見つかったらどうするのか態度を決めた。「謝る」「話し合う」「逃げる」からの選択である。幸い見つからなかったが隠し撮りは本来、そのくらいの覚悟を決めて撮るものだと思う。時が経ってSNSに出したり、こうして載せたりしているが、それは時代が経って写真が意味を持ってきたと信じるからである。

仕事でもそういう場面はある。イメージカットで、街のポスターをバックに二人の若い女性の後ろ姿を撮影した時のこと。見ていた中高年女性が「あなたたち!いま撮られたわよ!」と彼女たちに伝えた。私は名刺と見本誌を出して身分を明かし挨拶をした。撮影の意図と掲載する可能性があることを話したら、逆に喜んでもらえた。

最後は法律がどうのではなく人と人だと思う。堂々と撮っていると意外に何も言われない。デジタルとスマホの登場によって写真は普及したが、スナップについては変なことになっている。とにかく人物でも静物でも、たとえ一般的には意味がなくても自分が撮りたいと思ったら撮るべきだし、そうしていかないと写真は縮小していってしまう。自分のために堂々と撮れば良いのだ。そして万が一、相手や関係者からクレームが付いたら、相手の立場になって考えて真摯に対応する。それしかない。

それで思い出したのだが、最近、コミュニケーションが取れない人が増えたなと感じる。たまたま対峙しなくてはいけなくなった時でも、会話はおろか挨拶や会釈も出来ない人。あるいは意図的に「この人は知り合いじゃないから無視して良い」という意思を感じる人。障害がある場合はやむを得ないけど、「コミュ障」とか「陰キャ」とかの流行り言葉を隠れ蓑にしているように思う。

愚痴になってしまった。もともと私も個人主義だし他人にあまり興味がない方だ。しかし少なくとも社会に出て働いたり学んだりしている以上、最低限のコミュニケートする能力は身に着けておかなければいけないし、自分を守る事にもなるのになあ…と思うのは私が爺になりつつあるせいだろうか。デジタル化とAI化が、空恐ろしい世の中になるのを加速させているように感じて背筋が寒くなるのだ。

いろんな意味でバランスは大事だ。たとえ暗い写真でも心の底まで暗い気分になっては撮れない。シャッターを押す行為には最低限のアグレッシブさが必要になる。写真とは撮るのも観るのも自分の心の中に降りていく行為なので一人っきりでやるものだ。仲間と連れ添って撮影とか考えただけで憂鬱になる。「カメラと写真」という電子書籍を書いているが、その中で大学時代のゼミの話を書いた。その先生からは、写真を撮るだけでなく言葉での説明や会話を求められた。よい教えだったと思う。バランスと切り替えが必要なのだ。

「なぜ撮るのか」の考察から、肖像権やプライバシーの侵害と表現の自由の話になった。著作権について短く記す。デジタル時代になって撮影が手軽になった。写真がデータになり複製も簡単になった。著作権についても問題意識は高まってきたが、まだまだ誤った認識も多くみられる。ひとつだけ言っておきたいのは、「著作権は著作物を創作した時点で自動的に発生する」ということだ。プロとかアマとか関係ない。権利を主張しているとか注意書きがあるとかないとか関係ない。「好むと好まざるとにかかわらず、自動的に発生する」のである。そこだけ押さえておけば良いと思う。

自分にとって写真とは何かについて言葉を並べて来た。最後にデジタルとフィルムについて。もはや両者を対比させて語る時代ではないが、今でもそれらは別物だと思っている。仕事は当然デジタルだけど、私事はまだまだフィルムだ。優劣ではなく向き不向き。前にも書いたが仕事でなくても「何かのための撮影」は「要」なのでデジタルである。例の感染症の流行で「不要不急」という言葉が注目されたが、人が人であるためにはそれこそが大切なのだ。

世の中をアナログに戻せとは言わないが、フィルムの撮影と現像は自分の根っこの部分なので続けたい。最終形態はスキャンしたデータだったとしても、ネガやポジの肉体感覚は捨てられない。そして生身の人間である自分と他人を大切にしよう。私にとっては写真を撮ることが生きることなのだろう。

電子書籍
「カメラと写真」
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