見出し画像

就職失敗したから脚本家になった話

画像は2009年4月に撮ったもの。
まだ人生で「脚本」というものをひとつだって読んだことのない頃。赤坂にあるシナリオ作家協会のシナリオ講座に通うために道に迷わないようにと、パソコン画面の地図を撮ったのだと思う。
思い返すと、シナリオ講座に通ったことは、人生の分岐点だった。

どうしてシナリオ講座に通うことを決めたのか。
答えはシンプルで、就職活動が全然うまくいかなかったからだ。

就職失敗のおかげで脚本家になった。
今では感謝さえしている。

テレビ局以外に就職するイメージがもてなかった

子どもの頃から漠然と、テレビの世界に憧れていた。家に帰ればテレビにかじりつく、根っからのテレビっ子。あの頃から、大人になった自分を想像すると、バラエティ番組やドラマ、エンタメ制作に関わるイメージばかりが浮かんだ。根拠は何もない、でも多分、適職に違いないと感じていた。
だから就職活動ではテレビ局(キー局・準キー局)しか受けてない。当たり前のようにすべて落ちた。5次試験くらいまでが限界、狭き門だった。それでも諦めきれない、と言うより、その仕事以外をして生きていくイメージができなかったので、結局、休学して就職浪人をすることにした。
翌年の就職試験まで、たっぷり時間があった。だから少しでも就活の準備をしておこうと考えてシナリオ講座に通うことにした。
テレビ局の就職活動では、いつも「ドラマ制作」を希望していたくせに脚本をひとつだって読んだことはなかった。だからまず脚本の勉強をしてみようと思ったのがキッカケだった。

はじめての脚本

初めて脚本を読んだときの、興奮を覚えている。
『Shall we ダンス?』の脚本だった。書かれている文章が、そのとおりに映像になっている。「走りだす。」とあれば、その通りに「走りだす。」のだ。細かいことも書かれている。まさに映画の設計図。ワクワクドキドキ。すごい。すげえ。たのしい。なんだよ。やりたい。書きたい。
よし、僕も書く!!!
そのときから、脚本執筆に没頭するようになる。
毎日毎日、ひたすら書きまくった。

幸運なことに、シナリオ講座で出会った先生や仲間が良かった。
意味不明なひっどい脚本を書いても、否定されることはなかった。
僕の妄想を楽しんでくれて、もっと刺激的な提案をくれる小林弘利先生、岡芳郎先生との出会いが、余計に脚本の沼へハマるのを加速させた。

気がつくと、もうすっかり、テレビ局への就職に興味がなくなっていた。
テレビ局の面接で何度も聞かれたのが、
「希望しない部署に配属されたらどうしますか?」という質問。
「私は絶対に番組制作の部署がいいです。それ以外は嫌です」と正直に答えていた。柔軟性がなさすぎる回答、そりゃ就職活動すべて落ちて当然だ。
ただ、興味のないことをやってまでテレビ局にしがみつく理由はもうなくなっていた。やりたいこと、楽しいと思えること、それができれば良かった。

なんとなく、また根拠ないのだけど、脚本家としてやっていけそうな気がしていた。頭の中に、そんなイメージが膨らんでしょうがなかった。

やっぱり、心が震えるほど楽しいと興奮できる仕事をしたいですね。

脚本を勉強し始めて1年も経たないうちに、深夜ドラマでデビューすることができた。
デビューできたからといって、簡単な世界でもないですが。

そんな話は、また機会があれば。

では、また^^


まだまだ無名のド新人です。溢れるいっぱいの夢を、ひとつずつカタチにして活躍できるよう、ひたすら精進です。