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1973年のピンボール/村上春樹

村上春樹作品を読み返すと決めて二作品目。
哲学の学びにかなり脳を使ったが、やはり村上春樹の作品は読みやすい。
もちろん、この作品から何を学び、どう行動に移していくのか、考えることには頭を使うが。

物事には必ず入口と出口がなくてはならない。そういうことだ。

1973年のピンボール/村上春樹

→この作品のメインメッセージなのかなと思う。始まりがあれば終わりもある。出会いがあれば別れもある。成功があれば、失敗もある。そういうことを認識するメッセージだった。

それに猫の手を潰したからって誰が得するわけでもない。無意味だし、酷すぎる。でもね、世の中にはそんな風な理由もない悪意が山とあるんだよ。あたしにも理解できない、あんたにも理解できない。でもそれは確かに存在しているんだ。取り囲まれてるって言ったっていいかもしれないね。

1973年のピンボール/村上春樹

→事件や犯罪などニュースを見れば、たくさんの理解に苦しむ物事にあたる。理解はできないかもしれないが、その物事の被害など想像することは必要。目を逸らすだけではいけない。

「あたしは四十五年かけてひとつのことしかわからなかったよ。こういうことさ。人はどんなことからでも努力さえすれば何かを学べるってね。どんなに月並みで平凡なことからでも必ず何かを学べる。どんな髭剃りにも哲学はあるってね、どこかで読んだよ。実際、そうしなければ誰も生き残ってなんかいけないのさ」

1973年のピンボール/村上春樹

→生き残るためには学びが必要。特別なことをしなくても学びは得られる。その姿勢が大切。

「哲学の義務は」と僕はカントを引用した。「誤解によって生じた幻想を除去することにある。」

1973年のピンボール/村上春樹

→哲学は抽象的な事項に対する指針になる。答えではないが、ヒントになる。知っておく必要がある。

「僕は不思議な星の下に生まれたんだ。つまりね、欲しいと思ったものは何でも必ず手に入れてきた。でも、何かを手にいれるたびに別の何かを踏みつけてきた。わかるかい?」

1973年のピンボール/村上春樹

→何かを得るということは何かを失うということ。

「それでも人は変りつづける。変ることにどんな意味があるのか俺にはずっとわからなかった」鼠は唇を噛み、テーブルを眺めながら考え込んだ。「そしてこう思った。どんな進歩もどんな変化も結局は崩壊の過程にすぎないんじゃないかってね。違うかい?」

1973年のピンボール/村上春樹

諸行無常。最後は人は死ぬ。その過程が人生。
今をどう生きるか。手を抜く暇はない。

「まあ、世の中にはいろんな人間がいる。それだけのことでしょう。」

1973年のピンボール/村上春樹

→こう思うことが大切。他人を理解し、変えようとしない。

テネシー・ウィリアムズがこう書いている。過去と現在についてはこのとおり。未来については「おそらく」である、と。
しかし僕たちが歩んできた暗闇を振り返る時、そこにあるものもやはり不確かな「おそらく」でしかないように思える。僕たちがはっきりと知覚し得るものは現在という瞬間に過ぎぬわけだが、それとても僕たちの体をただすり抜けていくだけのことだ。

1973年のピンボール/村上春樹

→過去も現在も未来も一瞬の出来事。この宇宙の歴史に比べると。
今を真剣に生きても何かを残せる人など一握り。
自分の在り方を自分なりに生きる。失敗も成功も小さなこと。
やりたいことで出したい結果を出せるように真剣に取り組もう!

短い小説ではあるが、まとめてみると熱い思考にまとまった。
大学生の時は村上春樹をこんな風に読んでいなかったな。

読みたいと感じる方が増えますように。

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