掌編小説「ケーキ」


会社の帰り道、英雄は乗り換えの駅にある売店で菓子折りを買ってみた。翌日、英雄はいつものように出勤した。この日の電車は線路に人が立ち入り三十分遅延していた。けれど、英雄は前もって早くは出なかった。なぜなら、正に乗ったその電車が遅延する原因となったからであった。英雄は会社に遅れる旨を電話で伝えたが、心中は穏やかでなかった。出勤の朝にはアポイントを取っていた得意先の訪問が控えている。早く動いてほしいと思うのと、何か他の交通ルートがないか検討してみるが、発車の目途がたったので、遅延証明書を発行してもらった。得意先の相手に朝の遅延のことを話したら、その会社の社員も同じように影響を受けたようで、商談に間に合うか心配だったらしい。
英雄の会社が提示した内容では、相手は承諾してくれなかった。もう少し原価を安くしてもらわないと困る、経営が苦しいということだった。未曾有のような事態に直面してどこの業界も集客に苦心していた。英雄は、「では、また会社に持ち帰ります」と別の日にアポイントを取って、事務所に戻った。この日の夜は真っ直ぐ帰った。丁度観たいライブ配信が夜八時に控えていた。レモンハイボールの缶を飲みながらライブを楽しんで、ライブが終わると明日の準備をして、眠った。
その翌日は、運悪く目覚ましが鳴らなく、親に起こされた。朝から調子がのらないと思っていた英雄は、今日は電車がスムーズに動いてくれと思った。ところが、英雄の期待は叶わず今日も電車は遅れ出した。
「なんやねん」
そう胸のなかで呟いたのは決して英雄だけではないだろう。通勤電車というのは、大概同じ時間に乗る人は決まっているものだ。英雄が電車に乗る時には既に乗っている人はいて、英雄のあとに乗る人もいる。誰も話しをすることはないが、同じ時間に集まり、この電車の遅延に同じことを思う。さながらライブ配信で必ず出くわす人の関係にも似る。だが、誰も互いを知ろうとは思わない。知って何になるということよりも、朝は極力体力を使いたくないのだろう。出社後には、感情労働に務めないとならない日がある。そう思うと、電車のなかでは放っておいてほしいと思うのが普通なことだと英雄には感じた。だから、電車が止まり、見たことのある方と目があったところで、それっきりである。けれど、その人達を見かけるのは一度限りではない。なのに話さない。それを普通と感じる。ずっと電車が止まっているとそう感じる自分は本当に普通なのかと英雄は怪しく思ってしまう。
この日の勤務中に電話が入った。数年前に英雄の会社のオフィス家具を仕入れた会社がオフィスをリニューアルするということで、英雄にまたお世話になりたいとの依頼で、来週の木曜に英雄がうかがうことになった。今週は土曜日にまた乗り換える駅の売店で期間限定のケーキが売られていたので、家に持ち帰った。
運が良かったのか、次の週の電車は全く遅延しなかった。遅延は行きだけでなく、帰りのこともある。何がいやだって、遅延して待っている間にどんどん他の乗客が集まって来て、車内がぎゅうぎゅう詰めになることである。こういうとき、早く帰りたい人は多いから、人の行動マナーが悪い人の行動はあからさまに見えてしまう。それが英雄にとっては気持ちわるくてしょうがなく、帰りで遅れるときは何本か見過ごして帰ることが多いのだった。
自分の人生が続いていくことと自分が子供の頃よりも遥かに電車の遅延が目立ち、話題になっていくことへのこの不均衡にどうやって理解して呑み込んでいけばよいのか未だに英雄はよくわからなかった。わからないなりに過ごしていた。
いよいよ木曜日を迎え、久しぶりに訪問先の霧崎商事を訪れた。
「おはようございます。私、十時に社長の霧崎さんとアポイントを取りました江崎と申します」
「江崎さまですね。お呼びしますので少々お待ちください」
しばらくしてドアが開き社長が出て来た。
「ご無沙汰しております」
「いやあ、まだいたのですね、さあどうぞ」
 二人は応接室に入った。
「江崎さんから用意していただいた家具はとても使いやすくてですね、業務用の通販を利用するよりもまたお願いしたいと思ったのですよ」
「それは有難うございます。社長になられてとても羨ましい限りです」
「なに、江崎さん社長やりたいの」
「そういうわけではないのですが、待遇が変わらないというのは中々ですね・・・」
「色々ありますね、でもしがみついているお陰でまたあなたにお会いできたわけです」
「そうですね。なかなか仕事のお客様に個人的なことを話すのは少なかったですから、霧崎社長は私にとっても貴重な方です」
「その肩書は止してください、親から継いだまでですので」
そして、納品する家具はすぐに決まり、霧崎社長が英雄を気に入ってくれたおかげで、英雄の会社にとっても有利な条件で大口の受注になった。
「ありがとうございます」
「いいのですよ。あのとき、私の心を支えてくれたあなたにもお礼がしたかった」
「え?」
「数年前、江崎さんがこちらに来た時、私は精神的にいい状態ではなかった。個人的な苦しみを話したらあなたも同じようだと驚いた。私には世界があることを願うよりも、その対極にある虚しさを同じように感じている方が近くにいたことが有難かったのです」
「そうでしたか」
「そうそう変わらないでしょう」
「贅沢にもですね」
「え?」
「いえ・・・では、私はこちらで。あっ、こちらお口に合うといいのですが、皆様でどうぞ」
 そう言って英雄は手土産のケーキを渡した。
「お気遣いありがとうございます。これもまた贅沢な」
「はい、それでは後程」
 こう言い残して英雄は訪問先の会社をあとにした。


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