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こどもとのコミュニケーション

共に在る感覚を考える

「こども」と「親」である自分
もちろん一人の人間同士であるので、様々な違いがある。
お互いに愛情を持っている相手でも、違いに関して譲れないことも日々生活を共にしていればたくさん出てくる。
そんなとき、譲れないことに対して、どんなスタンスでコミュニケーションをとっているのだろうと考えてみる。

違いに対しての捉え方

他者とコミュニケーションをとる際、それぞれの違いをどのように捉えるのか。

①他者を”こういう人だから”と決めつける。
②あくまでも自分が主体として、他者を客体(対象)として捉える。
③他者を自分の主体として、他者の世界に立ち、世界を捉える。

自分と他者それぞれの違いに対して、①の考えにはなりたくないと思っているが、その時々によって①~③が複雑に重なり合いながらコミュニケーションをとっているのだと思う。
よく「相手の立場になって考えろ」と言われるが、ほとんどの場合が②のように相手を対象として捉えて、相手を分析しているだけなのかもしれない。

子供と親の関係性を考えていく中で、「文化人類学」と「環世界」というものに興味が湧き、勉強している。
両方とも詳しくは別の機会に深掘ってみたいと思っているが、コミュニケーションとの繋がりがありそうなことを簡単にまとめてみる。

文化人類学

「文化人類学」はそれぞれの人(民族等)の様々な違いを、対象の人、文化に入り込み、生活を共にし理解していく学問であり、お互いの"当たり前"の違いに目を向けるものでもある。

様々な他者という対象と、先に述べた③の捉え方(他者を自分の主体として、他者の世界に立ち、世界を捉える)で、コミュニケーションを図っている学問であり、他者との関係性において、とても重要な概念なのだろうと思う。

多種多様な民族がいる中で、自分達の常識が通用しない民族が世界にはいて、具体的に価値観がひっくり返るような事例がたくさんある。
具体例を見ているととても面白くてきりがないのだが、ほんの一部だけ例をあげておくと、

・「公」と「私」の概念が逆
私達は仕事を「公」とする認識が前提。プライベートを「私」としているが、世界には概念が逆で、仕事をしてお金を稼ぐことが、自分だけの金儲けをしているとの認識で「私」としている。家族や親類に関する用事、義理などを「公」としている。
・「右」や「左」などの概念が無い
そもそも「数字」「色」などの抽象概念をもっていない民族もいる。
・「ルール」という前提を持つことを良しとせず、その都度一から判断、交渉をする。
などなど。

環世界

「環世界」とは生物は同じ世界を見ていても、それぞれの種類によって世界を違う捉え方で認識しているという概念。

新たに”知覚”、”認識”、”習得”、”経験”することによって「環世界」は拡張していく。
例えていうなら、
”言語の習得”、”違う考え方を知る”、”初めてのことを経験する”
これらのことで「環世界」は広がっていく。
「環世界」が拡張していくと、世界の捉え方、見え方が拡張する前とは違うものになっている。言われてみれば当たり前のような気もする概念である。

この概念で親子関係をみていくと
今まで生きてきた大人である自分は、こどもと比べて、明らかに様々なことを手にしてきている。

反対に考えれば、こどもの気持ちを考えるということは、
自分にある”当たり前”が、一つ一つ無かった場合にどのように捉え、考えるかということを探っていく作業なのかもしれない。

共在感覚

ここまで、他者(子供)を理解していこうと2つの考え方、概念をみてきた。しかし、他者との関わり方について別の視点で捉えている情報学研究者のドミニク・チェンさんという方がいる。

著書である『未来をつくる言葉_わかりあえなさをつなぐために』という本にはこのように書かれている。

世界を「わかりあえるもの」と「わかりあえないもの」で分けようとするところに無理が生じる。そもそもコミュニケーションとは、わかりあうためのものではなく、わかりあえなさを互いに受け止め、それでもなお共に在ることを受け容れるための技法である。

「完全な翻訳」が不可能であるのと同じように、わたしたちは互いを完全にわかりあうことなどできない。それでも、わかりあえなさをつなぐことによって、その結び目から新たな意味と価値が湧き出てくる。

実際、自分が今まで経験してきた仕事や趣味でも、どうしてもわかりあえない場面はたくさんあった。

特に仕事で経験したことを振り返ってみると、自分と意見が合わずわかりあえない相手と関わりを持つ場合において、自然と感情がたかぶったり、ネガティブな感情や考えがわいてきていた。ただ「仕事」という前提で繋がっている相手であるために、簡単に関わりを絶ったり、相手を否定することは状況として難しかった。かといって自分の意見を曲げてまで、わかりあおうとはしていなかった。

そんなとき自然と「うまくやる対処」として、自分の意見は曲げず、心の中にいったんしまい、相手に合わせるということをしていることがよくあった。その場ではうまくことが進むので、そんなやり方でぶつかることを避けてきたように思う。

ただ、うまく対処するということで、やはりお互いの溝は縮まらないし、ストレスは溜まり、相手に対してネガティブな印象を持つという悪循環も生んでしまっていたのかなとも思う。


この本の中でキーワードになっている共に在る「共在」という概念は、コミュニケーションを考える良いヒントになりそうだと感じている。

「共在」とは人類学者の木村大治さんが研究していた民族の感覚を指している。

バカ・ピグミーという民族ではコミュニケーションをとる場合、発話重複と長い沈黙がある。話の内容に共鳴するときは激しく共鳴し、受け答えの会話ではなく、おのおのの発話が重複する。共鳴しないときは何時間でも何も話さず静かに共に居る。それこそが共に在る「共在」の姿である。

多様性と分人

他者との違いに関して近年、”多様性”という言葉が普及しているが、”それぞれに違いがあることを容認する”ということだけで終わってしまっていて、その違いをどのように捉えて交わっていくかということまで、考えられていないように感じる。
「ただ容認すれば良い」と、その先の思考を停止して、どう関わっていくのかを考えることを、自分の頭の中から”排除”しているふうにさえ思える。

「容認しよう」「認めよう」
これも結局、先に挙げた②の考え方をしている。
「あくまでも自分が主体として、他者を客体(対象)として捉える」
相手を理解、共感しようという姿勢が抜け落ちているように感じてしまう。

”多様性”を考えるとき、他者のことだけではなく、「自分の多様性(自分も他者と違う)」ということも忘れてはならないし、
自分も他者も、「分人」と例えられるように、その時々の状況で様々な面を持っているということも、他者と関わりを持つ場合には前提として頭の片隅に入れておく必要もありそうだ。

違いのある他者との関わり方

先にも述べたが、多様性ということについて、”それぞれに違いがあることを容認する”ということだけで終わってしまっていて、その先のまじわり方をあまり考えていないのではないかと感じていたし、そこには”あきらめ”があるように思う。

ただ、ドミニク・チェンさんの「わかりあえなさを互いに受け止め、それでもなお共に在ることを受け容れる」姿勢や、木村大治さんの「共在感覚」の捉え方をみてみると、そもそも相手を理解、共感し、うまくまじわることがいいことなのかとの疑問も生まれてくるし、そこを求めるからこその対立も確かにあると感じている。

初めに立ち返って、こどもとのコミュニケーションの場合で考えてみると、
「わかりあえなさを認め、共に在る」という関わり方はとても大切だと感じるし共感もする。

ただやはり愛情のある自分の子供との関わり方として、どうしてもその「わかりあえない」とは思いたくないという気持ちも生まれるし、「理解、共感」をあきらめずに「わかり合いたい」と思ってしまう。

もしかしたら、この相反している2つの考えは同時に求めることではなく、コミュニケーションの違う段階で共に大事なことなのかもしれない。
もしくは、「わかりあえなさを認める」ことこそが「理解」ということなのか。

この二人が言っていることの本質を、まだしっかりと理解できていないので、自分の考えがまったく定まっていないが、興味深いことなので、引き続き考えていきたいと思っている。



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