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自分が安心するために思い込み、色めがねをかけている


「決断の瞬間とは一つの狂気である」 セーレン・キルケゴール


子どもと接していると、この子はこういうところがあるとか、自分の考え方に対して思い込みを持っていることが多い。なんでしたくもない思い込みをしてしまうのか、ちょうど読んでいた本でたくさんのヒントがあったので、前の記事とかぶる部分もあるけれど、考えていきたい。



「決断」を考える


この本の中で、「決断」について述べている部分があって、ちょうど考えていた「思い込み」ととても似ているなと思った。

「思い込み」とは、何かを決めつけること。
他の可能性を否定する、ある意味あらゆる感情や解釈を選別するということだから、「思い込む」という「決断」をしていると言えるのではないか。

「決断の瞬間とは一つの狂気である」 セーレン・キルケゴール
決断は人を盲目にする。周囲に対するあらゆる配慮や注意から自らを免除し、決断が命令してくる方向に向かってひたすら行動する。
これは決断という「狂気」の奴隷になることに他ならない。
決断することに逃げ込む。自分の心や体、あるいは周囲の状況に対して故意に無関心となり打ち込む。
何かに打ち込むことで「安心」する。


思い込むことで「安心」する。

たしかに、何かを判断する時や、コミュニケーションを取る際には、どう転ぶか分からない不安がつきものだから、「思い込み」や「決断」をして無意識的に安心を求めるという引力が強くなってしまうのだと思う。

子どもをいろいろな意味で豊かに育てたいと思っているはずなのに、相手がどうしたいか、関係をどうしたいかではなく、自分が安心したいだけなのだ。

「決めつけて自分が安心したい」

あらためて考えると、そんな親にはなりたくない。

なりたくない気持ちはあるけれど、現実に思い込みをして、思い込んだ以外のことが見えなくなっている。例えて言うなら「色めがね」をかけて見ている。

では抜け出す為にどうするか。

「思い込み」は消すことは出来ないのかもしれないが、思い込みという「色めがね」を脇に置いて不安を見つめ直す必要があるように思う。


ルールを決めたがらないブッシュマン


「思い込み」を脇に置く為のヒントになると思っているのが、南部アフリカのカラハリ砂漠の狩猟採集民ブッシュマンの社会である。

詳しくはこのpodcastがむちゃくちゃおもしろいので、興味ある人は聴いてみてください。


ここで話されているのは、ブッシュマンはとにかく、ルールや決めつけという前提を持つことを良しとしていないということである。

どういうことか。

わたしたちは、社会の中で「ルール」や「常識」が前提にあったうえで、物事を判断、交渉しているが、ブッシュマンの世界ではむしろその前提を持つことを嫌っている。

たとえば、

・進歩的なものや、こと、文化が入ってきても、丸っきり新しい方、便利な方に置き換わるのではなく、古い方も両立させる。
どちらかに決めることを嫌い、常に自由であることが当たり前だと思っている。

・仕事も一つの仕事をずっと続けるのではなく、気分によって別の仕事をする時期があり、また気分によって元の仕事をしたりしている。

・男性だから、女性だから。大人だから、子どもだからという決めつけを嫌い、その人自身の能力で判断する。

・交渉をするとき、交渉に共通の方法が無く、その交渉事に対して始めから終わりまで一つ一つ決めていく。

このように、「ルール」を持たない社会生活はとても面倒くさいが、その都度一から判断、交渉、コミュニケーションをしているのだ。もちろん「ルール」がないから、非効率で時間もかかるし、失敗することも多くあるそうだ。

ただ、その都度一からということが当たり前な生活では、現場感というか状況を読み解く力、対応する力、アドリブ力が、常に鍛えられているのだと思う。


思い込みは「色めがね」をかけて盲目的になること。
不安に向き合うことは「色めがね」を外し見逃さないこと。

「ルール」や「常識」「思い込み」を脇に置いた状態で、コミュニケーションをとる。
それが子どもにとって正しい(と思われる)ことだと思うし、理想ではある。

だけど、そんな前提を脇に置いたコミュニケーションなんて、子ども相手でも、大人相手でもしたこともないし、厳密にいうと不可能なことなのかもしれない。
したことがない未知の不安や、不確実なゆえの不安もあり、やっぱり安心したいという引力に負けそうになってしまう。

コミュニケーションは常に「安心に逃げ込みたい」「不安に向き合い、共にする」の2つの感情の間で揺れ動き続けるものだと思う。

不確実で不安だとぶつかることもある。かといって思い込みがあってもぶつかる。どちらにせよ親と子、人と人だから感情や行動がすれ違ってしまうことは無くならないだろう。

どうせぶつかってしまうのなら、「色めがね」を外し、見逃してきたことに気づく努力をしたうえでぶつかった方が、お互いに素直になれるのだと信じたい。

「色めがね」は知らず識らずかけてしまっているものだけれど、気づいたときに外して不安に向き合い、共にすることで、「色めがね」をかけなくなるということではなく、「色めがね」をかけようとする瞬間や、かけてしまっていることに、今よりも敏感に気づくことが出来るのではないかと思っている。

相手から思い込みを持たれているということは、無意識に感じるもの。耳が痛いことだけれど、自分の安心の為に相手にネガティブ感情を植え付けてしまっているのだと肝に命じていきたい。




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