愛情を持ててるか
こうも毎日noteを書いていると、最近のことで「そういえばあのテーマについて書いてたっけ?」みたいなことはよくある。
だからもしかしたら書いているかもしれないし、書いていないかもしれないんだけど先日会社で新しい採用サイトをリリースした。
「サイトをつくった」
と言ってもすべてをつくったわけではない。ただ結構関わった(自己評)ので「サイトをつくった」と言っても言い過ぎではないだろう。
しかし自分は難しいコードが書けるわけもなく。
こちらは「ノーコードツール」と呼ばれる、コードいらずでつくれるサイトで作成したもの。本当に便利だね。
ただここで勘違いしちゃいけないのは、こういったサイトは完成することがゴールなのではなく、そこで実際に反応があって、応募があって、社員になってもらって、一緒にビジョンの実現に向けてやっていく・・・みたいな先の先の先にゴールがあるわけで。満足するには早い。
そんな中で近頃採用サイト経由での応募が何件かくるようになった。
もちろん元々の企業としてのブランド力があるのは言わずもがなだが、こうやって自分がつくったものに反応があると喜びはひとしお。やっぱり「愛情」があるからだと思う。
前置きが長くなったがここからが本番で。
今回みたいに、「愛情」を持ったものに対して反応があるとすごく嬉しい。人間やっぱり、自分が愛情を持っているものとか当事者意識を持っているものに対しては、愛着が湧くものだと思ってる。
「それをなんとかしたい!」「丁寧に届けたい!」
「よりよくするために改善していきたい!!」など。
これ、もっといろんな場面で発展させていこうよ、って思う。
その代表例が言葉だと思っていて。
一体どれだけの人がどれだけの場面でどれだけの言葉に対して愛情を込めて使えているか、と。
もちろんこれは私自身もそう。
言葉に愛情を持つ、ってちょっと陳腐な表現に聞こえるかもしれないけど、それでもわかりやすい表現でもあると思うから使いたい。
例えば尊敬する先輩とか、例えば好きな相手とかだったらめちゃくちゃ「愛情」込めた言葉選びをすると思う。考えに考え抜いたうえで発して、なおかつそのうえで「今ので正解だったかな?」「もっといい伝え方なかったかな?」と反省する。
すっごく尊いことだ。
全員に対してそこまでする必要はないのかもしれない。
でも、誰に対してもそれに近いくらい愛情を込めて言葉は選びたい、そう思っている。
言葉は諸刃の剣だ。
人を救うこともあれば、いとも簡単に傷つけることもある。
そして何よりも、言った本人は忘れがちで言われた本人は強く刻まれる、というのが特徴だと思ってる。
愛情なくしてつぶやかれた些細な一言で、相手にとっては一生背負う傷になることだってある。
じゃあ私たちはその発した言葉に責任を持てるだろうか。
きっと持つことはできない。発した言葉は取り返せない。
そこの危機感をもっと感じないといけない。
愛情込めて発した言葉は、それに対して得られる反応にも興味を持つ。
いい反応が返ってきたら嬉しく思う。今回の採用サイトと一緒だし、本来それが「会話」だと思う。
愛情を持つこと、大切にしたい。
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