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「自己犠牲」についての認識

「自己犠牲」について、もしかしたら以前書いたことがあるかもしれない。

でも人間って面白いもので同じ内容を書くとなっても時間がたてば一言一句同じになることはまずない。大事にしている核となる部分は同じかもしれないが、そこへのアプローチは瞬間瞬間で変わっており、最終的に見てみたら全く違う文になっていることもある。

と、言い訳はここまでにして、「自己犠牲」について自分の考えを書いていきたい。


自己犠牲に対してどのようなイメージを持っているだろうか。


誰かのために自分の優先順位を多少下げてでも何かをする、
自分はいいから先どうぞ、みたいな。
そしてそれを他人に説明するのはなかなか難しい。

たまにエピソードとして話した時に、
「もっと自分のために動いてもいいんじゃない」と言われることもある。
他人のために何かすることが当たり前になっていると、
「あ、今まで自分は自分をないがしろにしていたんだ。もっと自由にしてもいいんだ」と勝手に思考が今までの「自己犠牲」をしていた自分を否定するようになる。実際、それで気持ちが楽になることもあった。


ただ、他人のためにやったことの全てが自己犠牲か、と言われるとどうしても腑に落ちないことが多々あった。それでもその感情を上手く説明できなくて、だから一応説明しやすいように「自分は、自分を犠牲にしてまで他人のために○○やってました」みたいなことを言う。まるで悲劇のヒロインのように。


でも最近わかったことがある。自分は自分を犠牲にしてまで他人のために動いていたわけではないということを。


確かに誰かの期待に応えることが多かったかもしれない。自分で何かやりたい、と思う以前に周りからの推薦があって「じゃあやります」みたいなことは何度かあった。


「じゃあやります」は誰かに言われて決めることではない。自分の意志で決めることだ。そこには自分なりの覚悟とワクワクがある。期待を裏切るほどやらない理由もないし、その経験を経ることで身につくものもある。何より自分が出来るということを自分自身に証明するための挑戦でもある。導入が勧められた環境かつくりあげた環境かの違いだけな気もする。


何でもかんでも引き受けるのであればそれは都合の良い何でも屋ロボットかもしれない。でも私はそれが自分にしか出来ないことか、それをやることに対して自分はワクワクするか自分を輝かせることが出来る環境かみたいな部分も判断材料として選んできたこともある。


つまり、たとえ人のためだとしてもそれを自ら、やると覚悟を決めた瞬間それは自分のためでもあると思っている。だって嫌なら断ればいいのだから。嫌だけど嫌われるのが怖いからだとか、怒られるからやるのであれば「自分のために動こうよ」は通用するだろう。でも自分のためになる部分まで落とし込めるのであれば、その自己犠牲は全然アリだと私は思う。

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