見出し画像

見ようとしないと、見えるものも、見えてこない。

すごく回りくどい言い方になった。

以前こんなツイートをした。

そしてnoteでも似たような記事を書いた。

〈respect〉それは日本語では「尊敬する」という意味でつかわれることが多い。そして英単語の構造的にいうと、「re(再び)」+「spect(見る)」という構成で、「二度見てしまうほど」「振り返って見るほど」という意味合いがあるということを紹介した。

だから「respect」の対象に年齢の上下だとか、立場の上下だとかは関係なく、常にrespectセンサーは発動させていたいよね、という内容だった。


改めて思う。

日々生活を送っている中で、いろんな情報の取捨選択をしているな、って。
それは人に限らず、景色も、音も、匂いも、なんでも。

もちろんそれはしょうがない節もある。
だって全部に反応していたら疲れちゃうから。
頭がパンクしちゃうし、体力ももたない。

情報を取捨選択することで、脳の回転の緩急をつけることで、なんとか1日をうまく過ごせる構造になっている気がする。

だから「これは必要な情報」「これはいらない情報」と勝手に脳で選んでいるんだと思う。


例えば私はずっと野球をやっていたので野球を例にすると、
デッドボール(=ピッチャーのボールが体にあたる)を受けたとする。

特に硬式野球だとデッドボールってすごく痛い。
でも試合中、痛さって意外と忘れる。麻痺される。
それは試合に集中してるから。試合の中ではいらない情報だから。

試合が終わってちょっと落ち着くとめちゃくちゃ痛く感じる。
見てみると内出血していたりもする。
試合が終わったその瞬間から、試合中に「いらなかった情報」だったものが、途端に「必要な情報」になるのだ。


これはあくまで例だが、
普段生活を送っている中でも私たちは気づかぬうちに情報に対してシャッターを閉じたり開いたりしているんだと思う。

自分を守るためにはしょうがない、
もちろんその前提には立ちたい。

だけどその一方で、
見ようとすれば本来得られる情報も、その「シャッター」を遮断していることで見えていないことがあるんだよ、ということは自覚したい。


ちゃんと見れば気付ける「人の好さ」だったり「対象の魅力」だったり「可能性」だったり。逆に「醜さ」だったり「課題感」だったり「伸びしろ」だったり。

でもそれらはちゃんと見ようとしないと、見えてこないでもある。

そして私たちは普段見ようとしないものを、他からの情報で補おうとする傾向がある。

例えばメディアの情報だったり、風の噂だったり。
そういった「編集された情報」で、その対象をラベリングする。

情報過多の今の時代だからこそ、その風潮は強くあるし、そのすべてが悪いわけじゃない。

ここで大事にしたいのは、
「その情報はあくまですべての事実の一部であって全部ではない」
ということ。


情報を発信する側としては、よっぽど強い発信力じゃない限り「伝え方」を考えないといけない段階にきているのかもしれない。

感覚としては、
”情報・伝えたいことを『刺しに行く』”
というイメージよりも、
”情報・伝えたいことに『自然と集まってくる』”
イメージ。

自分優先じゃなくて、情報を求めている優先。
伝える強さよりも伝わりやすさ。

選ばれる発信よりも選んでもらう発信。

そのためには誰に向けて、どんな伝え方をすれば伝わるのか、
準備と選択肢の豊富さが欠かせない。


一方で情報を受け取る側の人間としてどういう立ち居振る舞いをすればいいか。それこそ「respect」センサーの発動は必須。

それに加えていうと、特に大事なのは「休日の過ごし方」かな、と。

やっぱり平日、仕事をしている時に情報の取捨選択をしてしまうのは致し方なさもある。

だからこそゆっくり時間が流れる休日に、普段見ていない部分をあえて見る時間を設けるのも必要だと思う。


見ようとしないと、見えるものも、見えてこないから。

この記事が参加している募集

今後の記事の質向上のための資金として使わせていただきます!