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誰しも最初は天才だったのかもしれない

私の最近の趣味の一つに「ラジオを聴くこと」がある。なかでもオールナイトニッポンやオールナイトニッポン0を聴くことが多い。

ただ夜更かしできるタイプの人間ではないのでだいたいはタイムフリーで聴いている。

好きなパーソナリティの一組がクリーピーナッツだ。

クリーピーナッツのラジオは言い方が正しいかはわからないがどこか「学生ノリ」のやり取りで行われるラジオで、とても近さを感じる。それでいてR-指定さんはラップの大会で日本一3連覇を経験し、DJ松永さんはDJの大会で世界一に輝くという実績も素晴らしい2人なのだ。

そんな彼らが最近出した曲に「かつて天才だった俺たちへ」がある。
この曲の冒頭は、

苦手だとか怖いとか気づかなければ 俺だってボールと友達になれた
頭が悪いとか思わなけりゃ きっとフェルマーの定理すら解けた
破り捨てたあの落書きや 似合わないと言われた髪型
うろ覚えのへたくそな歌が 世界を変えたかも・・
かつて天才だった俺たちへ 神童だったあなたへ
似たような形に整えられて 見る影もない

私たちの人生というのは、どこか「他者との比較」によって成り立っている側面が大きいように感じる。

「出来る・出来ない」という評価の仕方も、「頭が良い・悪い」という評価の仕方も、結局は誰かと比べることによってそういった定義が登場しているのだ。

よく巷には「知っておいた方が良いこと」「知らない方が良かったこと」というものがある。

勉強だったりスポーツだったり、結局は自分がどう思っているか・どうなりたいかが大事なのに、自分の相対的な位置を知ることで勝手に限界を決めつけてしまう傾向にある。これはもう、しょうがないことなのかもしれないが。

そして最終的には今ある「理想的な姿」だったり「あるべき姿」をみんなが目指していくようになる。結果、歌詞にも出てくるが似たようなかたちに整えられて見る影もなくなる。

有名な画家ピカソはの絵を見て、「これ、本当に上手な絵なの?」という感想をコメントする人を見たことがある。では元々絵の上手下手の基準は何なのか、となると日常に培われた固定観念に過ぎない。

でも人は生きていくために周りと関わっていくことが必要で、自分は天才だ、と狂ったように突き進むのもどこか違うように感じる。ところどころでの「折り合い」も必要だと思う。

ただ大事なのは、「自分も天才なんだ」ということを心に持っておくことだと思う。自分は最初から何もできない人間なのではなく、可能性は持っているのだということ。この気持ちを持っているかいないかで、一歩を踏み出せるかどうかはだいぶ変わってくると思う。

「かつて天才だった俺たちへ」には、自分は何者でもないと思っている人たちに、何者かになれる素質はあるのだと背中を押しくれる曲だと感じた。


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