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根っこの部分、失ってないか

「好きでいることまであきらめる必要はないよ」


あるドラマでのセリフが、いつまでも強く残っている。
すごく大事なことを教えられている気がするから。

子どもから大人までずっと大切にしていた方がいいことで、だけど大人になればなるほど、失いがちなものだとも思うから。


子どもの頃って好きなものを追っていけばよかった。

昼休みや放課後は自分のしたいことをやり、夏休みの自由研究では興味のあることを調べ、気になる課外活動や部活動をやる。そうやっていろんなことをやっていく中で、自分の「好き」「興味ある」を知り、自分自身を知っていく。

多少わがままが利く年代でもあった。

全ての人たち、全ての状況ではそう、とは言えないけど、
何かを願えば用意してもらえるし、何か困れば話を聞いてもらえる。

ただ、制限もあった。
自分1人じゃ出来ないこともあった。それが大人と子どもの、責任能力の違いであり、自由度の違いでもある。


大人になった今どうだろう。

自由度は広がったはずだ。
自分で出来ること、自分で決断できることの範囲は広がったはずだ。

じゃあ子どもの頃と同じように、何なら子どもの頃以上に、
自分の「好き」を追えているのだろうか。


追えている人もいると思う。
「好き」を仕事にしたり、趣味で好きなものをコレクションしたり、いろんな形で「好き」を体現している人がいる。

そういった人たちは輝いて見える。

自分はどうだろう。
あえてここでは「自分は、、」と言及するつもりはない。
自分自身でもまだ今どの立ち位置なのか、把握しきれていないから。

少なくともここ数年の中ではいい状態であると思う。
「好き」なことを仕事に出来るようになってきたから。
ただ好きだから、楽しいだけで片づけられるほどの世界でないことは薄々気づいてたけど実感する。

これってやっぱり自分1人でやっているわけではないことへの責任感から来ることだと思う。その責任を味わえているのって、むしろ光栄なことだ。

だけど時にそれは、自分を"無"にする可能性だって秘めている。
目の前の作業をこなす、ミッションを遂行する。
たしかに間違っているわけじゃないが、そこに自分の想いをちょっとでも上乗せできているか、は定期確認として必要なポイントな気がする。


そういったときに冒頭の言葉が響く。

「好きでいることまであきらめる必要はないよ」

今自分が続けられていることの原点って、やっぱり「好き」から始まったことだと思う。そうじゃなきゃ続けられてない。

どんなに責任範囲が広がったり、求められることが多くなったりしても、そこを失っちゃいけない、というか失うまで自分を追い込む必要はないんじゃないかなと。


自分自身への定期検診も込めて。



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