「継続」の言語化
「継続は力なり」
自分が覚えている中で、一番最初に出会った印象に残っている名言だ。
それは確か小学2年生の時、図書館にあったイチロー選手の本に書いてあった。「継続は力なり」と。
正直当時は言葉の意味はわからなかった。
でもちょうど小学校の野球チームに所属した時期であり、イチローさんのすごさも知ってはいたので、きっと大事なことなんだろうということは認識していたはずだ。だから今も頭を離れないんだろう。
そしてそれは今もなお、私の根底に根付いている。
「継続は力なり」を現在進行形で体現しているのだから。
このnote、書き始めてもうすぐで600日連続投稿を迎える。まさかここまで続くとは、といった感じだ。ここまで続けていると、
「継続力すごいよね」
と言われる。
確かに少しはすごいのかもしれない。ただ、あまり大きな声では言えないのだが何でもかんでも継続できているわけではない。
偶然noteが自分にハマっていて継続できているということ。
日記を書こうと思ってもあんまり続かないし、スタンドエフエムにも挑戦してみたが2週間ほどで面倒くさくなってしまってやめてしまった。
そう、ある側面を見れば継続できていない人間でもある。
それでもきっと周りの人からは継続できる人間と見てもらえている。
それはつまり何を意味するか。私が考えるに、
”一つでも何か継続できるものがあれば、それだけで周りの印象は変わる”
ということ。何も継続できない人間よりも、何か一つでも継続できた実績があれば「こいつならやるんじゃないか」、そう思わせる。
じゃあ継続できる・できないの差ってなんだろう?と考えた時に、自分の経験上言えることは、
「成功体験の重要性」
一度その「成功」を掴み取った時の気持ち良さを味わえるかどうかで、継続できるかどうかが決まってくる。
それに出会うためにまずある程度の期間継続しないといけないし、さらにいろんなものに挑戦しないといけない。
しかも何がきっかけになるかはわからない。もしかしたら「あれきっかけだったのに」と見過ごすかもしれない。その一方で、「それをきっかけと捉えたんだ」と強引な捉え方もありかもしれない。
私にとってnoteの場合はそれが「編集部のオススメ」に選んでもらったことだった。
1記事平均10~20スキだった当時、急にスキの通知が止まらなくなった衝撃は今でも忘れない。
成功体験に出会えたことでまずはその対象が好きになった。
好きになることで継続することが苦じゃなくなった。むしろ楽しくなった。楽しくなったらこっちのものだ。
だから私は思う。
継続できることもすごいけどそれだけがすごいんじゃない。
むしろ継続できるものを見つけることが出来たということがすごいんだと。
そしてそのきっかけはどこにあるかはわからない。そして待っていてもやってこない。
継続できないんじゃなくて、継続できるものを見つけることがまだ出来ていないだけ。そう捉えたらなんだか無限の可能性がある気がする。そして何か一つ継続できるものに出会えたら、それ自体が「きっかけ」となり、何かを継続するということが楽しくなるかもしれない。
大事なことだからもう一度言う。
継続できることがすごいんじゃない。
継続できることを見つけられたということがすごいんだ。
そしてそれは自分の行動次第でそのきっかけを掴み取ることが出来るんだ、と。
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